第十四話 黒い宮殿
グールは、すべてが黒に染まった世界を歩いていた。
床も、壁も、天井も黒。
漂う空気さえ、どこか濁っている。
すれ違う者たちは皆、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
怒り、嫉妬、憎悪、絶望――そんな感情だけを貼りつけたような表情。
だが、この場所ではそれが当たり前だった。
ここには、正の感情など一切存在しない。
すべてが負の感情で形作られた世界。
主は、この宮殿を――ネス・ピリオン。
通称、“黒の宮殿”と名付けた。
グールがここへ来たのは、報告のためだった。
宮殿の最奥。
主の間へと続く扉の前で、彼は立ち止まる。
コン、コン。
「どうぞ」
「失礼いたします」
⸻
広間の中央。
そこには、静かに椅子へ腰かける男がいた。
「やあ、グール。久しぶりだね」
穏やかな声。
だが、その目は氷のように冷たい。
「わざわざ呼び立ててしまって、済まないね。できれば、なるべく詳しく聞きたかったものでね」
「とんでもございません」
グールは一礼する。
「どのようなご用件であろうと、ラスト・ルート様に直接お会いできることは、我々にとって光栄の極みです」
「おや?」
ラスト・ルートは口元だけで笑った。
「今、少し笑ったね。キミがそんな顔をするのは珍しい。何か嫌なことでもあったのかな?」
「これは失礼を」
グールは姿勢を正す。
「これより申し上げる報告の中に、少々……気分を害した件がございまして」
「なるほど……」
ラスト・ルートは指先で肘掛けを軽く叩いた。
「キミが不快になるほどの出来事ならば……かなり期待できそうだね?」
⸻
「では、報告を」
「はっ」
グールは淡々と語り始めた。
「まず、少年の件ですが――真景より“タマゴ”は渡されておりませんでした」
「ふむ」
「これは当初の段取りとは外れましたが、真景との接触そのものは達成しております。問題はないかと……」
「うん。その通りだ」
ラスト・ルートは頷く。
「それよりも、少年の袋はどうだった?」
「……巨大でした」
その場の空気がわずかに揺れる。
「私自身が時間をかけて探りました。間違いございません」
「そうか」
ラスト・ルートの目が細まった。
「あの少年の特殊な気は、おそらく私にしか理解できない類のものだ」
「長く待った甲斐があったというものだよ!」
満足げに背もたれへ身体を預ける。
「追い詰めていけば、いずれ予定通りに事は運ぶだろう」
「これも、ひとえにキミ達の働きのおかげだ。礼を言うよ」
「恐れ入ります」
しかしグールは首を振った。
「すべては、我が上司ソルロア様の指示によるもの。私は駒として動いただけに過ぎません」
⸻
「グール。私への遠慮は不要よ」
別の声が響いた。
いつの間にか、広間の入口に一人の女性が立っていた。
「私も、ラスト・ルート様の駒の一人。ありがたいお言葉は、素直にお受けすればいいわ」
「はっ……し、社長!」
「ここではその呼び方はよして」
女性は、少し微笑んだ。
「ここでは、ソルロアよ」
グールは慌てて最敬礼した。
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「遅れて申し訳ございません、ラスト・ルート様」
ソルロアは深く頭を下げる。
「ソルロア・クリュシュ、ただいま参上いたしました」
「うん、わざわざありがとう」
ラスト・ルートは微笑んだ。
「キミの方も報告があるらしいね」
「私の件は後ほどで構いません。まずはグールの方を」
「すまないね……では、そうしよう」
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「続きを頼むよ、グール」
「はっ」
グールは再び口を開く。
「少年と行動を共にする少女――こちらには真景が“タマゴ”を与えておりました」
「ほう?」
「そして、少年を探っている最中……そのタマゴが覚醒しました」
「何っ……! 普通は、そんなに早く孵るはずがないよね?」
ラスト・ルートの声がわずかに低くなる。
広間の温度が、一気に下がった気がした。
ソルロアが一歩進み出る。
「その件につきましては、私からご説明を……」
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「実は先日申し上げた“農場”と“農園”の件なのですが――」
「今回、農園にて非常に興味深い作物が収穫されまして……」
「本来ならば、ラスト・ルート様へ献上さしあげる予定でしたが……」
「今回の案件に投入させて頂きました」
「実は、その作物は生前、その少女と深く関わりのあった者でして……」
「結果として、それが触媒となり……タマゴをその場で覚醒させたようなのです」
「……そうか。なるほどね!」
ラスト・ルートは楽しげに頷いた。
「やはり農場と農園は、想像以上に応用が利きそうだね」
「良い傾向だよ」
「ありがたきお言葉」
ソルロアは頭を下げる。
「選別した種子を農園へ導き、外界と断絶した亜空間で純粋な負の感情のみを与えて育成しております」
「今後は、その中でも上質なものを献上できるものかと……」
「うん……楽しみにしているよ」
⸻
ラスト・ルートは再びグールへ視線を向けた。
「それで、キミの不機嫌の理由は何なのかな?」
「はっ」
グールの声がわずかに硬くなる。
「少女は、タマゴの覚醒により――金剛力を得ました」
一瞬、沈黙。
「何っ……金剛力を?」
「はい」
「予想外の展開でした。……それで、少々、不覚を取ってしまいました」
ラスト・ルートは、ゆっくりと笑った。
「それは、素晴らしい」
「実に素晴らしい出来事だ!」
「今宵は、収穫続きだね」
⸻
「ですが……もう一件」
「うん?……まだ何かあるのかい?」
ラスト・ルートは、わずかに不快感をあらわした。
「先日、レガス様がお見えになりました……」
「ふむ……それで?」
「ラスト・ルート様が少年たちと接触された真意を知りたい……と」
「それは、放っておけばいい」
ラスト・ルートは即答した。
「ですが……あのお方の気性を考えますと、後々面倒に――」
「面倒?」
ラスト・ルートは笑顔のまま、床へ視線を落とした。
次の瞬間。
近くにいた下級の従者が、声もなく黒い霧へ変わって消えた。
誰も反応しない。
誰も驚かない。
それが、この場の日常のようだった。
「……私の不愉快さに比べれば、些細なことだよ」
静かな声だった。
「それに、馬鹿とレガスは使いよう――とも言うだろう?」
「はっ……では、そのように……」
二人は深く頭を下げた。
⸻
やがてラスト・ルートは立ち上がる。
「それより、堅い話はここまでにしよう」
「二人のために食事を用意してある。一緒にどうだい?」
「ありがたき幸せ」
「勿体なきお言葉」
「よし。では行こうか」
二人は従う。
三つの影が、黒の宮殿の奥へ消えていった。
さて、その先で、どのような食卓が待っていたのだろうか。
それが、常識的な料理である保証はなかった。




