第十三話 ネックロスト・マスター グールドラン【後編】
荒野を吹き抜ける風だけが、乾いた音を立てていた。
俺は膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた。
砕けた気の刃は、もう形を保っていない。
深代さんも満身創痍で、肩で息をしている。
そして――エチカは倒れたまま、ピクリとも動かない。
グールだけが、変わらぬ姿で立っていた。
「どうしました?」
黒いスーツの裾を揺らしながら、ゆっくりと歩み寄る。
「もう終わりですか。せっかくの舞台でしたのに……少々、期待外れでしたね」
その声が、胸に刺さった。
悔しい……。
だが、それ以上に分かってしまった。
今の俺たちでは、届かない。
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由紀を失ったエチカは、剣とともに心も折れてしまっていた。
もはや、どこにも立ち上がる気力は残っていない。
ここまでの絶望を感じたのは、生まれて初めてだった。
今まで持ち前の強気な心で、幾度も自分自身を救ってきた。
しかし今は、その唯一の力の源である心そのものが折れてしまっている。
決して安全とは言えない現状の中でさえ、抗う術を失っていた。
もう、何もしなくていい。
たとえこのままグールに殺されても、どうでもいい。
そう思えた。
――このまま何もしなければ、私は由紀ちゃんの所へ行ける。
そんな考えに、喜びさえ感じている自分がいた。
(ああ……私って、こんなに弱かったんだ……)
幼い頃から、人に見えないものが見えた。
怖くて訴えても、誰にも理解されなかった。
結局、自分で乗り越えるしかなかった。
いつしか虚勢を張って生きるようになった。
自分が弱い存在であったことさえ、いつしか忘れて――。
(それは……本当の強さじゃなかったんだ……)
(じゃあ……本当の強さって、なんなの?)
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その時だった。
――エチカちゃん……。
やさしい声がした。
(だれ……? 悪いけど、私はもう立ち上がれないの……だって、何もないんだもの……)
――あなたは、何も失っていないわ。
(ええっ……うそ。私は由紀ちゃんを守れなかったし……何も守れなかった……)
――何かを守る必要なんて、初めからないの。
――人は、始めから失うものさえ何も持っていないのよ。
――だから、人はもっと自由に生きていいの。
(自由……? 自由って、掴み取るものじゃないの? だから人は争い合っているわ……)
――それは、自分という幻と戦っているだけ。
――人と争っても、何も手に入らないわ。
――だって、みんな何も持っていないんですもの。
(じゃあ、私のこれまでの人生って……いったい、何のためにあったの?)
――何のためかなんて、あとからゆっくり考えればいいんじゃない?
――大事なのは、今、あなたが何をしたいのかよ。
(今……私がしたいこと……?)
………………。
(もう一度……もう一度、立ち上がりたい……)
(立ち上がって……自分とは何物なのかを、確かめたい……)
――あなたがそれを望めば、できるわ。
――未来は、自分で作るものだから。
(だめよ……私には力がない……もう、何も残ってない……)
――私は、あなたに救われたわ。
――あなたは決して弱くない。
――強さを、少し誤解していただけよ。
――本当の強さは、あなたの心の中にあるわ。
――あなたが呼ぶのを、ずっと待っている。
(私の……心の中に?)
――そう。
――勇気という名の、あなたの力。
――呼べば、必ず応えてくれるわ。
(私は……私は、まだ……戦えるの?)
その時、エチカはようやく声の主に気づいた。
「……由紀ちゃん……!」
――ええ。いままでも、そしてこれからも。
――探してごらんなさい。
――あなたの心の中を。
――勇気という名の力があるわ。
⸻
「勇気という名の……力!」
その言葉とともに、何かが胸の奥から湧き上がった。
それは地の底から噴き上がるマグマのように、力強く、確かだった。
次の瞬間。
轟音とともに、大地が震える。
「なにっ!?」
グールの表情が初めて変わった。
エチカの身体から、膨大な黄金の気が噴き上がる。
暗い荒野が昼のように照らし出された。
金色の奔流は彼女の周囲を渦巻き、やがて一つに収束する。
そして――その収束した光の中心に、エチカが立っていた。
傷ついたまま。
それでも、その瞳には揺るがぬ光が宿っていた。
「リュウ……待たせたわね」
いつもの声だった。
けれど、今までよりもずっと澄んで聞こえた。
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「……どうしました?」
グールが目を細める。
「あなたは、沈んでいたんじゃないですか?」
「ふっ……そうかもね」
エチカは小さく笑った。
「でも、まだ終われないの」
「無くしたままじゃね……」
右手を高く掲げる。
「聖剣――スメラギ!」
黄金の光が集まり、一振りの神々しい剣が現れた。
「リベンジさせてもらうわっ!」
一歩踏み込む。
その瞬間、姿が掻き消えた。
グールが反応した時には遅い。
黄金の斬撃が、黒剣バルハラへ叩きつけられる。
轟音。
グールの身体が大きく後退した。
さらに連撃。
黄金と黒が激突し、荒野に火花のような気が散る。
グールの顔に初めて焦りが浮かんだ。
「何っ……なぜ、急にここまで……!」
その一瞬の乱れを、エチカは見逃さなかった。
踏み込み、横薙ぎの一閃。
バルハラに大きな亀裂が走る。
続く追撃で、黒剣はついに砕け散った。
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静寂。
折れた剣を見つめながら、グールはゆっくり息を吐いた。
「これは……予想以上の成果ですね……」
その顔にまだ、敗北の色はなかった。
むしろ、何かを確かめ終えた者の余裕さえあった。
「まあ、いいでしょう……本日の目的は十分に果たしましたし」
「今日は、これくらいにしておきましょう……」
正面を向き、一礼する。
「では……皆さま。楽しいひと時を、ありがとうございました」
そう告げると、グールの姿は黒い霧となって闇へ溶けていった……。
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「はあっ……ここで退散?」
エチカは、スメラギを肩に担いで俺を見る。
「ねぇ? あれって……負け惜しみよね?」
拍子抜けしたように、スメラギを消しながら言った。
俺は、とりあえず愛想笑いを返しておいた。
そして、黒い荒野が消え、元の場所へ戻る。
深代さんは、近くに倒れていた葉澄ちゃんを見つけて介抱していた。
どうやら、救急車と警察にも手配をしているようだった。
「私は、ここに残って後処理をしようと思います」
「あなた方は、面倒になる前に退散した方がよくないですか?」
「まだ学生ですし」
たしかに、その方がよさそうだった。
「エチカ、後は深代さんにお願いしよう」
「そうね……すみません、深代さん。お願いできますか?」
深代さんは葉澄ちゃんをベンチへ寝かせ、穏やかに頷いた。
「ええ。こういうことには慣れていますから、お任せください」
「仕事柄、いろいろ知り合いもおりますので」
「表通りは騒がしくなるでしょうから」
「裏のハイキングコースから、帰られた方がいいかもしれません……」
「そうします」
俺たちは深代さんへ礼を言い、その場を後にした。
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空は白み始めていた。
「由紀ちゃん……帰れたかな」
エチカが空を見上げる。
「うん。きっと大丈夫だよ」
そう答えると、エチカは小さく頷いた。
そして、朝焼けの空へ向かって微笑む。
「……ありがとう、由紀ちゃん」
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「リュウ」
「ん?」
「今日は……ありがとね」
少し照れくさそうに笑うエチカ。
そんな素直な顔を見るのは珍しくて、こっちまで照れてしまう。
「……なんか、もう朝だな」
「うん」
いつの間にか、俺たちは手を繋いでいた。
差し出されたエチカの手は、朝の冷たい空気の中で、不思議なくらいあたたかかった。




