第十二話 すれ違いの果てに【前編】
キン爺に葉澄の見張りを任せてから、三日が過ぎた。
その間、これといった変化はない。
今日もまた、何事もなく終わる――そう思っていた。
読みかけの本を閉じ、照明のスイッチへ手を伸ばした、その時だった。
『おいっ、タカ! 動きがあったぞ!!』
頭の中へ、キン爺の怒鳴り声が飛び込んできた。
「うわっ!? びっくりした……何、どうしたの?」
『葉澄が呼ばれておる! さっき家を出たところじゃ!』
「えっ!?」
『急がんと探知範囲を超える! 四丁目の公園へ行け! エチカにはもう伝えてある!』
「わ、わかった!」
俺は慌てて立ち上がり、着替えをひっつかんだ。
家族に見つかって説明している時間はない。
こういう時のための非常口――窓だ。
窓を開け、庭の木へ飛び移る。
「うおっ……!」
枝がしなり、足が滑る。
危うく落ちかけながらも、なんとか地面へ降り立った。
そのまま全力で走り出す。
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夜道を駆ける。
肺が痛い。
足が重い。
こんなことなら、日頃から鍛えておけばよかった。
「はぁ……はぁ……爺ちゃん……間に合う……?」
『かつかつじゃ! 足を止めるな!』
「へいへい……!」
だが、その直後。
キン爺の声色が変わった。
『……妙じゃな』
「何が?」
『呼ばれておる葉澄の足取りが速い』
「それが?」
『わからんのか! 呼ばれる者の動きが速いということは、呼んでおる相手の力が強いということじゃ!』
背筋が冷えた。
『嫌な違和感がある……とにかく油断するな』
「……まあ、ダメそうなら逃げればいいし」
『お前は単純でええのう!』
「そんな褒めないでよ」
『褒めとらんわ!!』
⸻
やがて四丁目の公園が見えてきた。
「はぁ……はぁ……間に合った……?」
『ぎりぎりじゃ! 早くエチカを探せ!』
「わかった!」
だが、探すまでもなかった。
ベンチに座り、缶コーヒーを飲んでいる女がひとり。
しかもホット。
しかも満面の笑み。
「……よっ」
片手まで上げやがった。
「……何が、よっ、だよ!」
こっちは死ぬ気で走ってきたんだぞ。
「今来たの?」
「んー、ちょい前かな」
ごく、ごく、と缶を傾け、満足げに息を吐く。
「……ホッ」
ホッ、じゃない。
『ゆっくりしておる場合か! もう来るぞ!!』
キン爺の一喝で、俺たちは一気に表情を引き締めた。
⸻
公園の外れ。
そこを、少女が小走りで通り過ぎていく。
葉澄だった。
だが様子がおかしい。
腕はだらりと垂れ、目は虚ろ。
上体は前に傾き、まともに周囲も見ていない。
そんな不自然な姿勢のまま、常人以上の速さで走っている。
「うわっ……気持ち悪っ」
エチカが顔をしかめた。
『よいか……儂から最後の忠告じゃ』
『あの葉澄の後ろには、とんでもない奴が潜んでおる』
『由紀という娘が最後の糸を引く者ではない。さらにその奥に、別の何かがおる』
『そいつが出る前に終わらせろ。出てきたら逃げろ』
『絶対に戦うな。勝ち目はないぞ……』
そこで、声は途切れた。
探知範囲を越えたのだ。
⸻
俺たちは無言で葉澄の後を追った。
しばらくして見えてきた石段。
「……ここは」
「どうしたの?」
「柏山城跡へ続く道だ」
知る人ぞ知る、自殺の名所。
夜に近づく者はいない。
よりによって、こんな場所か。
「……最高に嫌な舞台だね」
「うん。趣味悪い」
葉澄は迷いなく石段を登っていく。
俺たちもその後を追った。
⸻
石段の先。
開けた広場の中央に、大木が一本。
その根元に、葉澄が座り込んでいた。
膝を抱え、虚ろな目で前を見つめている。
「葉澄ちゃん!」
返事はない。
肩に触れても、体はぴくりとも動かなかった。
その瞬間。
頭の中へ、冷たい声が流れ込んできた。
――何をしているの?
――ここは、私がいる場所。
――私だけが、いていい場所。
――関係ない人は出て行って。
エチカが一歩前へ出た。
「……由紀ちゃん?」
――その名前で呼ぶ人はいない。
「私よ、エチカ! 覚えてないの!?」
――私は、みんなに裏切られた。
――だから、一人でいる。
大木の影から、少女がゆっくりと姿を現す。
その姿は、かつてソルロアが写真で見ていた少女と寸分違わなかった。
中学時代の制服姿。
だが、その目に昔の優しさだけはなかった。
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「由紀ちゃん……お願い。そんな言葉、あなたらしくないわっ!」
エチカの声が震える。
「あなたは、いつも笑ってた……太陽みたいに!」
だが由紀は答えない。
葉澄を見下ろし、冷たく告げた。
――立ちなさい。
――これから、あなたが私にくれた苦しみを返してあげる。
「やめろ!」
「やめて!!」
俺とエチカの声が重なる。
――私もやめてって言った。
――何度も、何度も。
――でも、誰もやめてくれなかった。
黒い気配が渦を巻く。
空気が一気に重くなる。
「違う!」
俺は叫んだ。
「苦しみを返したって、新しい苦しみが生まれるだけだ!」
「それじゃ終わらない!」
「誰かが止めなきゃいけないんだ!」
由紀の視線が、ゆっくり俺へ向く。
――綺麗事ね。
⸻
次の瞬間。
見えない衝撃が炸裂した。
「うわあっ!」
「きゃあっ!」
俺もエチカも葉澄も、周囲の岩も木もまとめて吹き飛ばされる。
地面を転がり、肺の空気が抜けた。
「ぐっ……!」
「由紀ちゃん……やめて……!」
だが由紀は止まらない。
黒い気が空中に集まり、一振りの剣となってその手へ落ちた。
同時に、その体が黒い装甲に包まれる。
ぞっとするほどの殺気。
「エチカ……だめだ、やるしかない!」
エチカは苦しげに唇を噛み、手を掲げた。
「――イスルギ!」
塩の光から白い剣が生まれる。
⸻
由紀が踏み込む。
速い。
黒刃が閃き、火花が散る。
エチカは受ける。
ひたすら受ける。
「倒すつもりはない!」
「諦めてもらう!」
――甘いわね。
由紀の斬撃がさらに重くなる。
金属音。
衝撃。
連撃。
そして――
バキィン!!
「えっ……!」
イスルギが真っ二つに折れた。
エチカの体が吹き飛び、岩へ叩きつけられる。
「がはっ……!」
⸻
「エチカァァッ!!」
俺は気の刃を練り上げ、由紀の前へ飛び出した。
だが、黒い剣が一振りされただけで、俺の刃は砕け散る。
続く一撃を盾で受けるが、そのまま体ごと弾き飛ばされた。
「ぐあっ……!」
地面を転がり、立ち上がれない。
由紀がゆっくりとエチカへ近づく。
――覚悟なさい。
黒い剣が振り上げられる。
エチカは……ゆっくりと目を閉じた。
風を裂く音。
終わった――そう思った、その瞬間。
ガッキィィィン!!
夜空へ乾いた激突音が響いた。
エチカが、はっと目を開く。
そこには――
青白い気を帯びた剣で、黒い刃を受け止める男の姿。
長髪を後ろで束ね、黒いコートを羽織った青年。
彼は振り返り、静かに微笑んだ。
「……ギリギリで、間に合いましたね」
「ご無事ですか?……エチカさん」
エチカは息を呑む。
「……深代さん!?」




