侵食する悪意
「クラリス?」
フィンは私が目をそらしたせいか、前に回り込んできて顔を覗き込んできた。
「クラリスっ、私とカインは後ろを向いて離れているから。ほら!カインこっち来て」
「え、あ?でも――」
「いいから!」
二人が離れる気配がする。
離れた事を確認したのか、フィンが静かに私に話しかけた。
「何かあった?」
私を気遣う優しい声が耳を擽る。
私の頭の中には、昼間のフィンとコンスタンスの親しげな場面が何度も繰り返し再生された。
私と、フィンが向かいあった図書館のあの席。
眩しいからとカーテンを閉めてくれたフィンの優しい気遣い。
頬杖をつき、本に視線を落とした時に出来る睫毛の影。
長い指でページを捲る優雅な仕草――。
どれひとつをとっても、私とフィンの思い出だ。
それを、コンスタンスに全部黒く塗りつぶされたような嫌な気持ちが湧いてくる。
こんな胸がざわつく感情は、今までになかった。なんなら、今自分にも、とてもイライラしている。
あの時、私がコンスタンスに向かって言えば良かったのに。
「フィンは、私の⋯⋯って」
思わず小さく漏れ出た言葉は、フィンまで届かなかった。
「クラリス。小さくて聞こえな⋯⋯なんで、泣いている?」
フィンの、戸惑いが小さく伝わってきた。
「えっ⋯⋯あ、なんで?」
フィンに言われて慌てて頬に手を当ててみた。
温かい雫が流れて、顎を滑り落ちていった。
「やっ、これ、はっ⋯⋯!」
顔を手で必死で拭う。
涙が次々と溢れて止まらない。
「い、いま、止めるからっ⋯⋯ま、まっ――」
「クラリス!」
涙を止めようと、さらにゴシゴシと顔を擦る私の両手をフィンが掴んで止めた。
濡れて、ヒリヒリする顔を見られたくなくて下を向く。
「クラリス、顔は擦らないで、落ち着いて」
フィンが私の頬を労わるようにそっと手を当て、もう片方の手で、私の涙をハンカチで拭ってくれている。
「クラリス⋯⋯」
「エレノア、今は近づくな」
背後からは、エレノアと彼女を引き止めるカイン様の声が小さく聞こえた。
「⋯⋯もしかして、昼間のことかな?」
ビクッと体が震えた。
フィンとコンスタンスを見ていた事も、私がその場から逃げたのが見られていた?
咎められる?呆れられる?
もしかして⋯⋯私、嫌われちゃう?
そんなの嫌。
そうだ、何て言い訳しよう。
そんな事を考えていると、心臓がバクバクしてくる。
フィンに、嫌われたら私は⋯⋯。
「⋯⋯ごめん。また、不安にさせたね」
フィンが、私の背を優しく撫でてくれた。
「⋯⋯抱き寄せたいところだけど、俺が我慢出来なくなる。ここは、二人きりではないからね」
そう言ってふっと笑う吐息が耳に触れて、かっと顔が熱くなる。
「フィン⋯⋯近い」
「これくらいは、婚約者なら許容範囲だよ」
その台詞を聞いて、いつものフィンだってホッとした。
「⋯⋯怒ってない?」
「何をかな。むしろ、怒られるのは俺の方だろう?」
頭の上でフィンが笑った。
いつもの調子に、私は吹き出してしまった。
「⋯⋯そうかも、私⋯⋯」
怒ってもいい?と、聞こうとしたのに。
「っぐ!」
「フィン!?」
フィンが急に胸を押さえて苦しそうな声を出した。床に両膝両手をつき、前かがみになる。
「フィニアス様!」
「フィニアス様、どうされました!?」
エレノアとカイン様がフィンの側に近づいた。
フィンは呼吸が速く、顔色が真っ青だ。
「クラリス、お前何をした!」
カイン様が怖い顔で叫んだ。
「わ、私は何も⋯⋯」
そのカイン様の剣幕に、思わず後退りした私をエレノアが優しく庇ってくれる。
「カイン!誰がやったかではなく、今はフィニアス様の状態を確認することが先だわ」
「⋯⋯そうだな、悪かったクラリス」
カイン様はそう言ってフィンの状態を確認し始めた。
私もフィンの側に行き、手を握ろうとそっと手を伸ばした――。
――パシッ!
私の手が弾かれて、手の甲がじんっと痛んだ。
「⋯⋯触るな」
苦しそうな表情の中、冷たい眼差しのフィンと視線が合った。
◇◇◇
「フィン?」
振り払われた手の痛みなんか感じられなくなるほどに、お腹の奥に冷たい物がストンと落ちてきた。
「くっ⋯⋯カイン!」
「はっ!フィニアス様!」
「⋯⋯こんなところに、これ以上居たくない⋯⋯帰るぞ」
フィンは、カイン様に支えられながら立ち上がる。
そして、私に向かい一言だけ発した。
「これ以上俺に近づくな」
そう言うと、私から顔を背けて窓からカイン様と出ていく。
「フィン!」
背を向けるフィンを呼ぶ。
フィンは、一度立ち止まり大きなため息をついた。
「二度と、お前の顔を見たくない。行くぞ、カイン」
「で、でも⋯⋯本当にいい――」
カイン様が戸惑った様子でフィンと私の間を視線で往復する。
そんな事をしている間に、フィンは窓を乗り越え夜の闇に消えていった。
「クラリス。先程お前を疑った俺だが、今のフィニアス様はおかしい⋯⋯お前を嫌ってはいないはず、大丈夫だ」
そう言い残してカイン様も闇に消えていった。
「クラリス、明日にはきっと戻っているわ。元気出して、ね」
胸に不安を抱えながらも、エレノアにそう言われて、曖昧に笑って頷いた。
でも、翌日もフィンの様子は同じだった。




