初めてのお勉強
「え…」
「難しい事ではありません。彼女はほとんど人と交わることはありませんから」
泣き叫びながら自分の名前を呼んでいた彼女の声が、アキルの耳によみがえった。彼女が寝入った瞬間の寝息も、林檎を差しだした時の嬉し気な声も。
「どうしたんですか?返事は」
ルートの声が、アキルをせかす。しかしアキルは、うなずく事ができなかった。
自分でも驚くことに、フューシャの声を思い出してしまったら、できなかったのだ。うなずいた方がいいとわかっている。今までいろいろなものを諦めてきたアキルだ。この程度の事を承知するのは簡単なはずだ。しかし…アキルはぎゅっと唇を噛んだ。
「なんで…あいつはあの部屋に一人なんだ?あいつは、何者なんだ?」
苦し紛れにそう聞いたアキルに、ルートは鋭く言った。
「口を慎みなさい。フューシャ様は、この園の最高司政官、ヴァリ様のご息女なのです」
最高司政官。えらいやつの娘。つまり彼女が本当に「お姫様」であると言う事がアキルにも理解できた。
「…『アドナイ』に乗ってるのも、それが理由?」
「おおむねそうです。彼女は、この園の人ですらめったにお姿を見る事はかなわないのです。あなたのような人が近づいて良い立場ではないのですよ」
「そうか…」
あんなに親しく懐いてきたというのに、彼女は遠い存在だった。そう思うと、頭の中に灰色の霧がかかったような、一気に背中が寒くなったような心地になった。
(もう…会えないのか)
アキルは無意識に、ぎゅっと手を握りしめていた。よく毛布をそうしていたように。
逡巡するアキルに、ルートはいくらか声のトーンを落として言った。
「そう落ち込むことはありません。ここには水も食料も、なんでもある。地上とは比べ物にならないほど安定した生活が送れますよ。彼女の事は、忘れなさい」
忘れる。そんな事ができるだろうか。しかし、どのみちアキルに逆らう力などないのだ。アキルは肩の力を抜いて、うなだれた。
「…わかった。いう通りにする」
その次の日から、この部屋で「特別プログラム」が始まった。内容は主にこの「園」の基本情報について覚えるところからだった。アキルが字を覚えたてだと知って、ルートは仰天した。
「一昨日初めて絵本を読んだ!?では…口頭で説明した方がよさそうですね」
ルートは両手いっぱいに持ってきた本を置いてため息をついた。
「ここで暮らしていくつもりがあるのなら、あなたは地上の規範を捨て、園のルールに従っていただくことになります」
「それはわかってる。ここのルールって、どんなんだ?」
「まず文字を読めるようになっていただかないと、話になりません」
「ここの奴らは、全員文字が読めるってのか」
「当たり前です。それとその言葉づかいも直しなさい。口に出る言葉は、その人間の内面の現れです。言葉が汚いと、それ相応の人間だとここでは見なされますよ」
「でも俺は…あんたが言う『それ相応の』人間だし」
アキルが正直に思った事をいうと、ルートの目が吊り上がった。
「それでは困ります。ここは地上とは違うのです。ふさわしい者しか、いることは許されません」
アキルの心の奥底で、じわりと反抗心が沸き上がった。
「そりゃ地上とは違うよな。…だって浮いてんだから、この島」
「それは反重力装置が作動しているからです」
「…なんて?」
「地球には重力というものがあります。それは知っていますね?」
「なんだそれ」
ルートは絶句した。
「地上の学校は、そんな事も教えないのですか?」
「ねぇよ、学校なんて。皆食っていくだけで必死なんだから」
「学校がない!?なんという事でしょう。これは時間がかかりそうですね…」
ルートは思案顔になった。アキルは文字すらろくに読めず、ルートも地上の現状など知る由もない。両者の知識の隔たりは、ルートが最初予測していたよりもずっと大きかった。彼は軽く咳払いをした。
「ではとりあえず、『あなたが』知りたい事から教えることにしましょう。何でも聞きなさい」
そういわれ、アキルはすぐさま口を開いた。
「ここの人らは、何者なんだ?なんで太陽の下に出ても、平気なんだ?」
その質問に、ルートは落ち着き払って答えた。
「我々も、あなたと同じく人間です。ただ遠い昔に、我々の祖先は地上から離れた。というより、地上へと戻れなくなったのです」
「なんで?」
「この地は元々、大気や気象を研究するために作られた施設でした。ですがだんだんと地上の生活が困難になり、数多くの研究機関や大学がこの園へ移ってきました。結果このような大所帯となったのです」
「それって、25ショックの時のこと?」
「ええそうです。それは知っていたのですね」
「ああ。25世紀を境に、人間は地上に住めなくなって地下に潜ったって聞いた」
「大気汚染に気象異常、そして紫外線の影響…それらから逃げて、地下に適応できる者だけが生き残ったと私は聞いています。だからおそらく、あなたは我々より体が丈夫なはずです」
「…で、ここの住人はその時地下じゃなくて空をえらんだ人たちの…子孫ってこと?」
「この場所で研究や学問を続けているうちに、下の世界は変わり果てていた、というのが正しいですね」
その言葉を聞いて、アキルは釈然としなかった。
「でもおかしいだろ?だってここは地上よりも太陽に近いだろ。何で平気で暮らしていられるんだ?人も植物も」
するとルークは心なしか誇らし気な顔になった。
「良い質問ですね。それこそがこの園の存在意義だったのですよ」
「あー、もうちょっと簡単な言葉で説明してもらえる?」
「仕方ない。努力しましょう。あなたはここの新入生の誰よりも未熟なのですから」
「はいはい」
ルークのもったいぶった言い回しに、アキルもだんだんと慣れてきた。
「ここのそもそもの研究が、いかにして大気汚染や異常気象を食い止めるかというものでした。我々の祖先は長い時間をかけて紫外線を吸収する植物や、空気を浄化する装置の開発に成功したのです。ただ…その時にはもう、遅かった」
「遅かった?なんでだよ。そんなすごいもんがあるなら、地上のやつはいくらだって欲しがるよ」
思わず食って掛かったアキルに、ルートは鋭い声で言った。
「だからです。地上での生活ができなくなり、その時にあった国家も法律も崩壊してしまった。25世紀以降、人間は知性や規律を捨て後退した。ルール無用の略奪、テロ、暴動が横行し、暴力が支配する時代になってしまった。それを知った我々の祖先は、決断したのです」
「…もう地上には降りないって?」
「いいえ。正確には待つと。我々の技術が、地上の人々の間で生かせる時が来るまで。それから長い時がたちましたが…我々はずっと、その技術を継承・発展させてきました」
アキは拳を握りしめた。
「なんだよ…それ。生かせる時って…いつなんだよ?!」
震えるその声に、ルートは静かに言った。
「その決断は、司政官にゆだねられています。我々にはわからない」
「はぁ…!?あんたらが高飛車に構えてるその間にも、地上の人間はどんどん死んで苦しんでんだぞ!?スズメバチにも殺されて…!」
ルートの顔がわずかに翳った。
「…あなたの怒りも、わからないではありません。ですが、待つと言う事も、それなりに辛いものなのですよ」
その言葉に、アキルは反撃しようと口を開きかけた。が、カツカツと靴音が響いて、一人の少女が部屋へ入ってきた。
「ずいぶん優しいのね?ルート。そんな奴に丁寧に説明してあげて」
「司政官の命令ですので、シアン様。」
群青色の髪をさっと後ろへ払い、アキルの目の前にシアンが仁王立ちした。その目は冷たくアキルを見据えている。彼女は傲然と宣言した。
「座学は終わりよ。ついてきなさい」




