心の準備が……
ナイトティーは、カモミール、レモンバーム、ローズペタル、アップルピースなどがブレンドされたもので、甘みのあるリラックスできる香りがした。
この香りを思いっきり吸い込み、深呼吸を繰り返すことで、邪念を退散させることができたと思う。
香りを存分に楽しみ、まさに一口飲んだところで、シリルがバスルームから出てきた。
真っ白の寝間着に、薄手の月白色のローブ。
軍服でも普段着でもない、夜の装いのシリルを見るのは、初めてのこと。
緊張をほぐす紅茶を一口飲んだばかりだが、すぐに体がドキドキし始めた。
人間であろうと魔族であろうと、体の反応は正直だ――そう実感する。
魔法を使っているので、黄金の髪はすっかり乾き、艶もあった。
肌は潤いを増しているようで、触れるともちもちしていそうだ。
入浴を終えたシリル。
ただそれだけで余計な妄想をしてしまいそうなので、シリルの分のナイトティーを、ティーポットからカップに注いだ。
「オデット、もしかしてそれは……」
「シリルの分だ。とても飲みやすく、香りもいい。私はとても気に入った」
私からソーサーにのったティーカップを受け取ると、シリルはベッドに腰を下ろし、紅茶を口に運んだ。何口か飲んだ後、フッと笑みが浮かぶ。
どうしたのかと首を傾げると……。
「メイド長が『シリル坊ちゃま、モンド公爵家のナイトティーは、少し甘味があるブレンドをしているのです。なぜだか分かりますか? それはこのナイトティーを、お一人で飲むものではなく、奥様と二人で楽しんでいただきたいからです。奥様になる女性はきっと、このほんのり甘みがあり、リラックスできる香りを気に入ると思いますよ』と言っていた。まさにその通りになった」
「それは……甘い物が好きという女性は、多いだろうから」
「それはそうだ。だが自分がこのナイトティーを一緒に飲みたいと思ったのは、オデットだけだ。ナイトティーだけでなく、アーリーモーニングティーも、オデットと飲みたいと思っている」
会話が甘い流れになったように感じ、なんだかまたもや鼓動が早くなる。
ナイトティーをがぶがぶ飲んでしまうが、静まりそうにない。
「オデット。ベッドはこの部屋に一つしかない。でもサイズも大きく、二人で余裕で休める。君のことを大切に想っているから、無茶なことをするつもりはない。ソファで休むなんて言わず、ここで横に並んで眠ろう」
不自然にナイトティーをがぶ飲みしたので、すっかりバレバレだと思った。
確かに私は……ソファで眠ろうと、後々提案するつもりでいたが……。
シリルと私は婚姻関係を既に結んでいるのだ。
よってここは遠慮などいらないはずだった。
敗戦国の王女を、愛人に娶った王であれば、すぐにベッドに転がされ、蹂躙されていただろう。
シリルは正式な手続きを踏み、私を伴侶に迎えたのだ。
その上でここまで配慮してくれるなんて。
冷静に考えれば、私は自分の魔力を弱め、失くす必要があった。
そのためにはシリルの溺愛が……必須。
経験がないとか、指南書を読んでいないとか、心の準備が……と言っていては、いつまで経っても何もできないのではないか!?
とりあえず、だ。
まずは言われた通り、シリルと一緒のベッドで休むところから始めよう。
空になったティーカップはローテーブルに置き、もう恥ずかしいからと小走りで、シリルのいるベッドの方へと向かうと……。
前世から思っていた。
どうして何もないところで躓くのかと。筋力の低下が原因というが、前世の私はまだ二十代だった。そんな老化が理由のはずがないと思っていた。……まあ、二十代と言いつつ、アラサーだったのだけど。
だが、今は違う!
魔族の年齢で言うと、とんでもないことになるが、人間の年齢で言えば、二十歳になったばかり。前世より若い! それなのに……。
何かに躓いたようになり、そして。
「オデット!」
私はベッドに座るシリルの胸に、飛び込むようにして倒れ込んだ。
こんな乙女ゲームやアニメや漫画みたいな展開に、自分がなるなんて。
ベッドで仰向けで倒れ込んだシリルに折り重なるように、倒れこんでいた。
この時はドクンと大きく鼓動を感じ、血の気が引く思いになり、目を閉じてしまった。
倒れ込みながらシトラスの香りを感じる。
これはシリルも私も同じ石鹸を使っていたからだ。
倒れ込んだまさにその瞬間。
シリルがナイトティーを飲んでいたことを思い出す。
もしやベッドが、紅茶で汚れているのでは!?
慌てて体を起こそうとすると、シリルにぎゅっと抱きしめられる。
本来、心臓爆発案件であるが、紅茶のことを考えたことで、比較的落ち着いて行動できていた。
きっと運動神経が優れているシリルなら、カップの中の紅茶が飛び散ることがあったとしても。カップ自体は手に持っているはず。今、こうして両手で私を抱きしめているということは……。
目を閉じてしまい、確認できなかったが、サイドテーブルにカップは置いたんだ!
きっとそうだと思い、安堵する。
安堵して、力が抜けることで……。
全身でシリルのことを感じてしまう。
引き締まった体をしていたので、きっと拳で叩いてもびくともしないくらい硬いのかと思ったが。
そんなことはなかった。
ごつごつしているなんてことはなく、普通に馴染む。
何よりほんのり温かく、そして聞こえてくる。
シリルのドキドキしている心臓の音が……。
驚かせてしまった。
「……シリル、すまない」
「気にするな。事故だ。……と言いたいところだが、これはキツイな」
「! 重いか!?」
「え!?」
「夕食もメインまでしっかり食べてしまった。さっき南国のフルーツっもたっぷりいただいた。……重くて当然だと思う」
ぎゅっと抱きしめていたシリルから力が抜け、彼は自身の黄金の前髪をかきあげ、朗らかに笑う。
「オデットを重いなんて思ったら、自分は剣も持てないぞ。オデットは紙のように軽い。もっと食べた方がいい」
そこでシリルが私の体をコロンとベッドに転がす。
それはもういとも簡単に。そして「ほら、こんなに簡単に転がせる」と言われてしまうと「確かに」と唸るしかない。
そのまま体を起こしたシリルはさらに私を転がすので、「シ、シリル!」と私は大騒ぎ。
でも最終的にベッドで休むに相応しい位置に収まった。
するとシリル自身はそのまま室内の明かりを一箇所を残し、消していく。
これまでも明るいわけではなかったが、さらに暗くなり、そして薄手のローブを脱ぐシリルの動きにドキドキしてしまう。寝間着だけになると、体のラインがくっきりと見える。やはり引き締まった贅肉のない、立派な体躯だと思わずにいられない。
ゆっくりと私の隣にシリルが横たわる。
言われた通り、ベッドは前世でも見たことがない程、大きかった。
だから横になったシリルとは、間に誰か一人眠れるぐらい、距離がある。
「さっきは本当に驚いた。まさかあそこで躓くとは……。だがまるで自分の胸に飛び込んできてくれるようで、嬉しかった」
「いや、申し訳なかった。紅茶をぶちまけることにならなくて、よかったと思う」
「紅茶……の心配か?」
「え?」
「紅茶や重いかとそんな心配ばかりだが……。オデットらしいと言えば、オデットらしい」
そこでクスッと笑ったシリルがこちらを見る。
この暗さでは、もう瞳の色は分からないし、髪も黄金であるとは分かりにくい。
それでもその瞳からなんというかシリルの気持ちを感じる……。
「気づいたら、放していると思う。それに無理なら断ってくれて構わない。……手をつないで休んでもいいか?」
「それは構わないが、それで眠れるのか?」
「さあどうかな。でも……オデットに触れていたい」
純粋な気持ちを伝えられ、それは素直に共感できるものだった。
手をつなぐ以上のことを求めたいのに、我慢してくれている。
それは私に気を使ってのこと。
優しい。
シリルは本当に優しい。
「手をつなぐのでは寝にくそうだ。腕枕でどうだ? 枕と首の間にできた隙間に腕を通せば、痺れることがないと聞いたことがあるぞ」
前世で、ついに彼氏ができたという親友が教えてくれた話だ。
「……いいのか? そんな近くに……」
「夫婦なんだ。構わない」
「ありがとう、オデット。君の勇気に感謝する」
遠慮がちに。でも私を抱き寄せ、腕枕をすると、「おやすみ、オデット」とシリルは額へキスをする。
シリルは明日、ヴィレンドレーへ向かって旅立つ。
眠らないといけないんだ。
私がもぞもぞしていては、シリルも眠ることができないはず。
前世からずっと。
眠れない時にすること。それは深呼吸をして、頭の中では果てしない海を浮かべ、感情を排除する。
何も考えない。
こうしてシリルと婚姻関係を結んだ私の初夜は、平和に終わった。