閾値を超え
シリルは儀礼用の軍服の上衣のボタンを外していき、中に着ていたシャツのボタンも外していた。
まさか上半身裸になっていたら、どうしよう……!
そう思ったが、それはない。
だが掴まれた右手は、そのままシリルの胸の方へと誘われる。
叫び出しそうになる衝動を、自分の手で口を押さえ、なんとか呑み込む。
「!」
シリルの引き締まった胸に、私の手が触れていた。
その温かさとシルクのような肌触りに、歓喜と同時に衝撃を覚え、手を引こうとしたが。
シリルが私を掴む力の方が強く、逃れることはできない。
「感じてほしい、オデット」
「な、何を!?」
「静かに」
その細い指が、彼自身の唇に添えられる。
形が良く血色のいいシリルの唇に、ドクッと心臓が反応したが……。
ドクドクドクと猛スピードで動いている心音を、私の右手が検知している。
こ、これは……。
目の前にいるシリルは、落ち着いた表情をしていた。
空を切り取ったような瞳には、驚く顔の私が映りこんでいる。
シリルの頬は、赤くなっているわけでもない。
息遣いが荒くなっているわけでもないのに……。
右手から伝わるシリルの鼓動は、とんでもなく早くなっていた。
「なぜこんなに自分の胸が高鳴っているか。分かるか、オデット?」
「そ、それは……」
「好きな女性に、触れられているからだ」
これには狂喜乱舞したくなり、自制するのに必死だった。
それなのに!
シリルがさらに私を煽るようなことを、口にするのだ。
「もっと自分に触れて欲しいという思い。逆に自分が君に触れたいという思い。その二つの思いが高まり、こんなにも鼓動が早くなっている」
もう、ダメだ!
全身が熱いし、顔が真っ赤になっていると自覚がある。
でもどうにもできない。
「自分も好きな女性を前にしては、ただの男に過ぎない。今、この瞬間、自分が騎士であり勇者であること。明朝、ヴィレンドレーへ仲間と軍を率いて向かうことも、吹き飛んでいる」
そこまで言うと、シリルがゆっくり自身の胸から、私の手を離してくれた……と思ったら。
今度は私が自分の口を押えていた手を、シリルの手がゆっくり掴む。そして掴んだ私の手を、自身の方へと近づけると……。私の手の平、指先に、順にキスをした。
いろいろな閾値を超え、脳の理解が追い付かない。
ただ、シリルの唇が触れる度に、体の芯が痺れるように感じ、呼吸の乱れを感じる。
もう頭が理性的な判断を放棄し、感知した心地よい気持ちだけを享受していた。
なんて彼の唇は、触れ心地がいいのだろう。
上質なベルベットのように、柔らかく、なめらかだ……。
手の甲へのキスを終えると、シリルが上目遣いでこちらを見上げる。
普段のシリルからは想像もつかない妖艶さに驚き、魅了されてしまう。
「自分がこんな風に胸が高鳴り、触れたい、触れて欲しいと感じるのは、オデット、君だけだ。少しは伝わっただろうか? 政略結婚ではないと。愛のない結婚などにするつもりはないと」
これにはもう首を何度も縦にふることになる。
するとシリルの表情は、いつもの爽やかなものへと変わった。
「そうか。伝わってよかった……。ただ、オデット。君こそ、どうなのだ? 生きるには自分と結婚するしか道はない、そう考えたのではないか? オデットこそ本当は、愛と結婚をあきらめたのでは?」
顔はいつもの清々しい状態なのに。
すっと伸びたシリルの指が私の顎を持ち上げ、自身の方へ向ける。おかげでもう何度目か分からない程、心臓がドクドクドクと大きく反応していた。
それでも私は必死に答えを口にしようとしていた。
「わ、私はシリルのことを……」
期待と不安が込められた熱い眼差しを向けられ、思わず震えが走る。
震えとは、恐怖や緊張でするものだと思っていた。
あとは物理的な寒さに対して。
だが嬉しすぎても……震えるものなのか。
何とか深呼吸をして、返事を口にする。
「シリルとは知り合って間もない。だがそれでも、シリルの人柄や性格を知るにつけ、好ましさを覚えていた……」
最後の方は緊張で息が苦しくなり、なんとか絞り出すようにして、伝えることになった。
するとフッと口元をほころばせたシリルが尋ねる。
「つまり自分のことをオデットは、少しずつ好きになってくれている……ということか?」
「そ、そうだ」
もう恥ずかしくて消えたくなっていたら、ふわりと抱きしめられていた。
「……すまないな。許可をとらず、急に抱きしめてしまった」
!? もう書類上の手続きは終わり、シリルと私は夫婦なのだ。
何を今さらと思ったら……。
「キル殿が、『オデットは、手に触れられるぐらいなら大丈夫だろうが、それ以外は徐々にだろうな。ゆっくり慣らしてやってくれ』と言われた。だからそのつもりでいたが……。今はあまりにも嬉しかった」
「う、嬉しかったというのは……」
「オデットが少しずつでも、自分のことを好きになってくれている。それを知ることができて、とても嬉しい」
またもや私から理性を奪うような言葉を告げられ、もう頭がどうにかなりそうだった。
しかも私を抱きしめるシリルからは、石鹸のいい香りもする。
「君を守るためにも。婚姻関係を結ぶための手続きは、急いでしまった。でもそれ以外を急ぐつもりはない。ゆっくりで構わないから。どうやらオデットは何も覚えていないようだし」
コン、コンというノックの音がして、もう心臓が飛び上がりそうになる。
シリルが私を抱きしめたまま、「どうした? 入れ」と声をかけると……。
シアとペルが、沢山の花で飾られた花瓶を手に、部屋へと入って来た。
「先程のブーケを花瓶にと思っていたところ、『お祝い』ということで、続々と花束が届きました。それをこちらのように、まとめてみました。それにしても皆様、どこで聞きつけるのでしょうか」
シアがそう報告すると、シリルはクスッと笑う。
そしてゆっくり私から体をはなし、こんなことを口にする。
「なるほど。わざわざありがとう。ではその花瓶はそっちに、それはあっちへ。しばらく花は届くだろう。神殿には遅れて一人、少しおしゃべりな者が到着したから」
間違いなく、叔父であるキルのことだ。
おしゃべり……というか、姪っ子の私が結婚したことが嬉しくて、つい会う人誰かれ構わず話しているのかもしれない……。無論、悪気はないと思う。
「以後受け取った花は花瓶に移し、屋敷の好きな場所に飾ってもらって構わない。ある程度の数になったら、メッセージカードと共にヘッドバトラーに報告し、カードは執務室に届けてくれ」
シリルがテキパキと指示を出し、シアとペルは花瓶を飾った。
こんなところでもシリルは騎士であり、勇者であり、そして指揮官として、仕える者達が求める答えをすぐに出せる。当たり前のようにそれができるシリルが私は……好きだ。
そう思うと、なんだか肩の力が抜けている。
なんというか、素直にシリルのどこを好きか考えていい状態になったことで、いろいろなものが解きほぐれた気がした。
なぜならシリルと私は……政略結婚に見えるかもしれないが、愛がある結婚ができていたのだ。
「では、失礼いたします」
シアとペルが去ったが、部屋の中は一気に華やかになっていた。
チェスト、ローテーブル、ベッド脇のサイドテーブル、暖炉の棚の上。
色とりどりの花で、フローラルな香りも漂う。
「……そういえばシリルは、叔父上とは随分と打ち解けているのだな」
「キル殿には、いろいろ助けていただいた。魔族と人間の戦争の終結にキル殿が果たした役目は大きい」
人間サイドからすると、そうだろう。
だが魔族からすると……。
キルが黄金のドラゴンを魔王城内へ運ぼうと最初に声をあげた。元々黄金に魔族は目がないため、ついそれに追随してしまった者も多かった。その結果……。
各地に散り、今も人間に戦いを挑む魔族からしたら、キルは「大バカ者!」という評価だろう。だが人間からすると「ありがとう、大バカ者!」に違いない。
「オデット」
シリルがくいっと私の顎を持ち上げた。























































