ある人魚姫の話
今日も海をながめている。アノヒトがワタシを迎えに来てくれるはずだから…
ずっと暗いオリの中にいた。寒くはないけれど、とてもさみしいところだった。ここから出たくて、逃げたくて…必死だった。
いつもごはんを運んでくるヒトがいた。言葉を交わすことはないけれど、いつも眉を下げながらワタシにごはんを渡してくる。
ごはんはいつも冷えた何かだった。今思えばとても食べられたものじゃなかったのだと思う。それでもワタシはそれがあたりまえだと思ってた。
アノヒトが急にごはんといっしょに丸いなにかをくれた。きらきらしてるあのすきまのそとから見える景色とおんなじなにか。食べろってアノヒトがいうから食べてみたらあまい味がした。大好きな味だった。
シラナイダレカがきた。オリに入ってきた。かみをひっぱってワタシの顔をのぞきこんだ。よくわからない言葉を大きな声で吐き捨てて出ていった。怖い…目から水分が落ちていった。この後のどがかわいちゃうかもなんて思っていた。
アノヒトがやってきた。いつもと違う眉の間にしわをつ作った顔で話しかけてきた。
―逃げよう。君はこんなところにいちゃ駄目なんだ。
よく覚えてる。ワタシのために脱獄を計画する覚悟を決めた顔だった。
あのときのワタシはよくわからないままアノヒトに背負われてオリを出た。歩き方も知らないままのワタシ。うしろを追いかけてくるシラナイダレカタチ。
そのままワタシを小さな木でできたフネに乗せ。アノヒトは言った。
―大丈夫。これからは君は自由なんだ。好きなように生きて、好きなような景色を見るんだ。
ワタシをひとり送り出そうとするアノヒトの袖をつかんだ。なんだか心が寂しかったから。
―どうして
思わず口をついた。アノヒトは微笑んで言った。
―昔読んだ人魚姫に、君が似てたから。
初めて見る微笑みだった。人魚姫の意味も知らないままのワタシは上手く言葉がでてこなかった。そもそも言葉を知らなすぎたのだ。
―さぁ、おいき。
はじめての世界は戸惑いばかりだった。ヤサシイヒトタチが流れ着いたワタシを助けてくれた。小さな海辺の農村。言葉も文字も何もかもを教えてくれた。ワタシがナニモノなのかも聞かずに面倒を見てくれた。きっとヒトではないと気付いていただろう、本当にヤサシイヒトタチ。アノヒトのようだった。
そんな生活にも馴染んできたころ、ワタシを置いてくれた家に人魚姫と書かれた絵本があるのを見つけた。
内容は他の絵本とたいして変わらない、よくある御伽噺。海を知らない囚われの美しい人魚姫が優しい使用人の手によって自由の身となり、世界中の海を旅するのだ。そして最後には人魚姫を助けてくれた使用人が彼女を迎えに来てくれて、人間となる。そんなどこにでもあるお話。
ワタシは夢中になった。なんどもその絵本を読み返した。アノヒトはきっとこの絵本にでてくる優しい使用人なのだ。ダカラキットワタシヲムカエニキテクレル。絵本が擦りきれボロボロになってもワタシは飽きることはなかった。ヤサシイヒトタチがこの家を離れるときにその絵本をくれた。毎日海辺に絵本を持っていって読み返した。あの海の向こうからアノヒトがやってくるはずだから。
絵本はもう文字も絵も混ざり合って読めなくなってしまったから海に返してしまったけれど、海を見つめれば鮮明に思い出せる。
そして沢山の日の浮き沈みを見た。アノヒトはまだ来ていない。まだかしら。そんなことを思っていたある日、見知らぬ少年に声をかけられた。
「ねぇねぇ、なんでずっとうみをみてるの」
珍しい子だ。いつからかワタシはダレにも気にされることもなくなって、ここにいたのに。気付けばひとりぼっちだったのに。アノヒトを待ってるの、と返そうとして止めた。なんだか、ヒトに教えたくない気持ちになったからだ。これはワタシだけの秘密にしておきたいと強く思った。
『ワタシ、人魚姫なの』
替わりにそう教えた。そう、ワタシは人魚姫なのだ。それを聞くと納得したように少年は親元に帰っていった。
また、日が海と溶け合うのをなんども見た。ある日ひとりの男がやってきた。アノヒトとは似ても似つかないヒト。コノヒトはワタシに声をかけてきた。あの少年以来だ。農村が街となっていたように、ヒトの感性も移り変わっていったのだろうか。
なんだかコノヒトに幾ばくかの興味が湧いてきた。アノヒトには遠く及ばないけれど、たまに気が向いたときだけ返事をしてやった。案外、ワタシは孤独だったのかもしれない。
嵐がやってきた。ワタシはいつものように海を見ている。こんな嵐だけれど、もしかしたらアノヒトが嵐を縫ってくるかもしれないから。
ふと、後ろから音がした。びしょ濡れのコノヒトは酷い格好だった。
「っ、貴方は、何を、待っているんですか?」
そう息も絶え絶えに問いかけてくる。教えないと言う気持ちが揺らぎかけた。
本当は気付いている。アノヒトがもうワタシを迎えに来ないこと。アノヒトはもうこの空の下にはいないこと。コノヒトがアノヒトの生まれ変わりなのだと信じれば、ワタシを代わりに迎えにきてくれたのだと信じれれば、幸せになれるのだろうということ。
…それでもワタシは…
『貴方には、教えないわ』
今日も海をながめている。大好きなヒトがワタシを迎えに来てくれるはずだから…




