第三章 交わる想い 第三部 残る音
工房を開ける。
朝の空気が、まだ冷たさを残していた。
ラナンは窓を開け、机の上を整え工具を並べる。
いつもの場所。いつもの順番。変わらない朝だった。
炉に火を入れる。小さな炎が揺れる。
その光を見ながら、ラナンは今日の修復品を手に取った。
古い銀細工の指輪。表面には細かな傷が残っている。
長い間、誰かの指にあったものだ。
ラナンは指先で傷をなぞった。
壊れたものには、ちゃんとした理由がある。
使われた時間と記憶がある。それまで消してはいけない。
必要なのは、新しくすることではない。残すべきものを残すことだった。
昼を過ぎた頃。
扉が開く。
「こんにちは。」
ラナンは顔を上げる。
イリスだった。
もう驚くことはなくなっていた。
小さく頷く。それだけで、イリスは笑った。
以前なら、不思議に思っていたかもしれない。
なぜ、この人は何度も来るのか。
なぜ、何も話さなくても帰らないのか。
けれど、今は考えなかった。
工房に誰かがいる。それだけを感じていた。
イリスは窓辺へ向かう。
棚に並ぶ修復品を見る。
時折、小さく声を漏らす。
「綺麗ですね。」
「珍しいですね。」
その声が、時々聞こえる。
ラナンは手を止めない。
けれど、以前より工房の音が増えたことには気付いていた。
工具の音。炉の音。そして、小さな足音。
「これは?」
イリスが机の端に置かれた木箱を見る。
ラナンは視線だけを向ける。
「古い箱だ。」
「直るんですか?」
「……たぶん。」
イリスは少し笑った。
「ラナンさんなら、直せそうです。」
その言葉に、一瞬ラナンの手が止まる。
ほんの一瞬。
けれど、すぐに作業へ戻った。
木箱の傷を見る。
古い傷。欠けた部分。直すべき場所。いつもと同じだった。
夕方。
イリスが帰る時間になる。
「また来ますね。」
ラナンは頷く。
扉が閉まり、静けさが戻る。
工房には、工具の音だけが残った。
いつもと同じ。そのはずだった。
ラナンは机の上を見る。
そこには、白い野花が入った小さな花瓶が置かれている。
客が置いていったもの。そう思っていた。
けれどいつからか、その花が枯れないよう水を替えている自分に気付く。
ラナンは花瓶をしばらく眺める。
そして、何も言わずに作業へ戻った。
翌朝。
扉を開ける。机を整える。工具を並べる。そしてふと、窓辺を見る。
白い花がまだ咲いている。
ラナンは視線を戻した。
今日も仕事が始まる。
ただ。
いつもより少しだけ、扉の音が気になった。
第三章 終
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
お互いがお互いを意識し始めた章でした。
そこから二人の想いがつながり始めます。
ゆっくりと進む物語ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。




