第四章 春を知る心 第一部 残された音
昼を知らせる鐘が鳴った。
ラナンは、手元の時計から視線を上げる。
細い針。小さな歯車。長い年月を刻んできた傷。
指先で一つずつ確かめながら、外した部品を元の場所へ戻していく。
静かな作業だった。
いつもと変わらない。
そのはずだった。
カラン。
不意に、扉の鐘が鳴る。
ラナンの手が止まり、顔を上げる。
「こんにちは。」
聞き慣れた声ではなかった。
そこにいたのは、年老いた女性だった。
「これを……お願いできますか。」
差し出されたのは、小さな木箱。
ラナンは受け取り蓋を開けると、中には古いブローチが入っていた。
金具は緩み、表面には細かな傷が残っている。けれど、雑に扱われてきた傷ではなかった。
大切にされてきた時間が、そこに残っていた。
「直せますか?」
女性が尋ねる。
ラナンはしばらくブローチを見つめた。
「……時間はかかる。」
「待ちます。」
その返事に、ラナンは小さく頷いた。
女性が帰り、扉が閉まる。
また、工房に静けさが戻った。
ラナンは作業台へ戻り工具を手に取る。
いつものように。いつも通りに。
けれど。
何度目か分からないほど、扉へ視線が向いた。
理由は分からなかった。
ただ、そこに何かを待つような感覚だけが残っていた。
夕方。
最後の客を見送り、ラナンは工房の灯りを少し落とす。
帰る前に、窓辺へ目を向けた。
白い野花。
小さな花瓶の中で、静かに揺れている。
ラナンは近づいた。
花はまだ元気だった。水を替える必要はない。
それでも、手は自然と花瓶へ伸びていた。
少しだけ位置を変える。
窓から入る光が、よく当たる場所へ。
そこで、ふと手が止まる。
なぜ、そんなことをしたのか自分でも分からなかった。
ラナンは花から視線を外し、工房を見渡す。
机。工具。棚に並ぶ修復品。何一つ変わっていない。昔から見てきた景色。
なのに、どこか違って見えた。
ラナンは扉の前へ立つ。
鍵を掛けるためではない。
ただ、何となく外を見た。
夕暮れの石畳。行き交う人影。その中に、探している姿はなかった。
しばらくして、ラナンは静かに扉を閉めた。
その夜。
作業台の上には、まだ途中の修復品が残っていた。
いつもなら、最後まで終わらせてから眠る。
けれど、ラナンは一度だけ、閉じた扉を振り返った。
聞こえるはずのない音を探すように。
カラン、と鳴る小さな鐘の音を。
しかし、工房に残っていたのは、炉の火が揺れる音だけだった。
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は二人の歩み寄る速度を感じてほしいと思っています。
ゆっくりと進む物語ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。




