第四章 春を知る心 第二部 届かない場所
庭園の花が、少しずつ春の色を取り戻していた。
冬の間、固く閉じていた蕾が、朝の光を受けてゆっくりと開いていく。
イリスは花壇の前にしゃがみ込み、小さな白い花へ目を向けていた。
「もうすぐ咲きますね。」
指先で触れることはしない。ただ、その時を待つように眺める。
花は、急かせば綺麗に咲くものではない。時間をかけて、自分の力で開くものだ。
それをイリスは知っていた。だから、待つことは苦ではなかった。
……以前なら。
「ラナンさんなら、どう言うでしょう。」
ふと、そんな言葉がこぼれる。
イリスは小さく目を見開いた。なぜ、最初にあの人のことを考えたのだろう。
綺麗な花を見れば、庭師へ話す。
珍しいものを見つければ、使用人たちと笑う。
それがいつもの自分だった。
けれど最近は違う。
何かを見つけるたびに、あの小さな工房が浮かぶ。
古い木の机。整然と並べられた工具。壊れたものを見つめる、真剣な横顔。
そして。
名前を呼ぶと、ほんの少しだけ表情が変わること。
イリスは立ち上がった。
今日は工房へ行く予定だった。それだけを楽しみにしていた。そう思っていた。
しかし。
「イリス。」
振り返ると、父が立っていた。
「少し時間をもらえるか。」
「はい。」
屋敷へ戻る。
話の内容は、春の催しについてだった。
領地のこと。商会との付き合い。これから先、家を支える者として必要なこと。
どれも大切な話だった。
イリスは笑顔で頷く。
「分かりました。」
そう答える。
けれど。窓の外へ向かう視線を、何度も戻すことになった。
町へ続く道。その先にある小さな工房。
今頃、ラナンは作業をしているのだろうか。
そんな考えが、何度も浮かぶ。
自分でも不思議だった。
以前なら、一日会えない人がいても気にしなかった。
なのに。今は...。
夕方。
ようやく自由になった頃には、日は傾き始めていた。
イリスは外套を手に取る。
一歩、扉へ向かう。しかし、足が止まった。
今から向かえば、工房へ着く頃には閉める時間かもしれない。
それでも行こうか。
そう思った。
けれど。
明日なら、もっとゆっくり話せる。そう考えてしまう。
イリスは外套を戻した。
「......明日にしましょう。」
誰に言うでもなく、呟く。
翌日も。その翌日も。
思うように時間は作れなかった。
庭の花は少しずつ咲いていく。季節は変わっていく。
けれど、イリスの中には一つだけ残り続けるものがあった。
工房へ行きたい。ラナンに会いたい。
その理由を、まだ上手く言葉にできない。
ある夕暮れ。
イリスは部屋で、赤と青の髪飾りを手に取った。
古い傷。緩んだ金具。長い時間を共にしてきた跡。
ラナンはそれを、その思い出を大切に扱ってくれた。
イリスは髪飾りをそっと箱へ戻し、窓の外を見る。
遠くに、町の灯りが見えた。
その中に、あの工房がある。
「......会いたい。」
小さな声だった。
誰にも聞こえないほどの声。
けれど自分には、はっきり聞こえた。
イリスは少しだけ笑う。
「変ですね...。」
何が変なのか分かっていた。
でも、まだ名前を付けるには少しだけ早かった。
その夜。
眠りにつく前。
イリスは決めた。
明日は必ず行こう。
理由を探すためではなく、ただ、会いたい人に会うために。
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は二人の歩み寄る速度を感じてほしいと思っています。
ゆっくりと進む物語ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。




