第三章 交わる想い 第二部 春風の居場所
春の陽射しが少しずつ柔らかさを増していた。
屋敷を出る前。
鏡の中の自分を見つめながら、小さく首を傾げた。
「今日は、どんな理由にしようかしら。」
思わず笑みがこぼれる。
商会へ届け物がある。
市場へ買い物がある。
本を探したい。
理由はいくらでも作れた。
けれど、本当は違う。用事のついでではない。
工房へ寄るために、用事を探している。
そのことには、まだ気付かないふりをしていた。
工房の扉を開ける。
扉の鐘が静かに響いた。
ラナンはいつものように机へ向かっている。
顔を上げる。
「……。」
目が合う。
そのまま小さく頷き、また工具へ視線を戻した。
それだけだった。
「こんにちは。」
イリスは自然に言葉を返す。
返事はない。けれど、それももう慣れていた。
窓際には、修復を待つ品々が並んでいる。
イリスは一つひとつを眺めた。
欠けた皿。止まった懐中時計。取っ手の折れた木箱。どれも誰かが手放せなかったもの。
「これも、大切なものなのかしら。」
誰にともなく呟く。ラナンは手を止めない。
「……そうだ。」
短い返事だけが返ってくる。それで十分だった。
「今日は何を直しているんですか?」
ラナンは机の上を指差す。銀細工だった。
花を模した小さな髪留め。花弁の一枚が折れている。
「可愛い。」
イリスは思わず身を乗り出した。
ラナンは黙ったまま工具を動かす。
細い針のような道具。炎。金属が静かに息を吹き返していく。
イリスは、時間を忘れるほどにその様子をじっと見つめた。
外では昼を知らせる鐘が鳴った。
その音でようやく我に返る。
「……ごめんなさい。」
ラナンを見る。
仕事の邪魔をしてしまったかもしれない。
けれど。
「……大丈夫だ。」
追い払うこともない。急かすこともない。
また静かに手を動かしている。
その沈黙は、不思議と拒絶には思えなかった。
それからというもの。
イリスは何度も工房を訪れた。
毎日ではない。
けれど、市場へ出るたび。商会へ寄るたび。気付けば足は町外れへ向いていた。
工房では、ほとんど話さない。ラナンも変わらない。
それでも。
「こんにちは。」
「……。」
「また来ました。」
「……ああ。」
少しずつ。
ほんの少しずつ。
沈黙が居心地の良いものへ変わっていった。
ある日。
イリスは窓辺に小さな花瓶が置かれていることに気付く。
白い野花が一輪。
「綺麗。」
ラナンは手を止めない。
「客が置いていった。」
それだけ。
イリスは花を見つめる。
窓から入る風で、小さく揺れていた。
工房は静かだった。けれど、どこか温かい。
「この工房、好きです。」
独り言のように呟く。
ラナンは何も答えない。
けれど、工具を持つ手が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だけ。
イリスは、その小さな変化に気付かなかった。
帰り道。
夕暮れの光が石畳を橙色に染める。
イリスはゆっくり歩く。
もう、工房へ行く理由は探さなくなっていた。
理由がなくても。あの場所へ行っていいのだと。
いつの間にか思えるようになっていた。
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
優しい時間が流れる場所を見つけたエリス。その続きを見守っていてください。
ゆっくりと進む物語ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。




