第三章 交わる想い 第一部 再び訪れた場所
朝の光が、屋敷の長い廊下を照らしていた。
磨かれた床。高い天井。壁に飾られた絵画。幼い頃から見慣れた景色。
その中を歩きながら、イリスはふと足を止めた。
窓から差し込む光が、手元に落ちる。
赤と青。
二つの髪飾りが、朝の光を受けて小さく輝いていた。
指先で触れる。以前とは違う感触。傷は消えていない。細かな擦れも残っている。
けれど。
それが嫌ではなかった。
むしろ、その傷があるからこそ、そこに過ごしてきた時間を感じられる。
幼い頃、祖母から受け取った日。
嬉しくて、何度も鏡の前で髪に飾った。
大切な思い出と共に歩んできたもの。それを、あの人は見てくれた。
ラナン。
名前を思い浮かべる。
あの静かな工房で、黙々と手を動かしていた人。
初めて会った時は、不愛想な人だと思った。
けれど、工房を出た後もずっと、その姿だけが残っていた。
古いものを前にして、黙って向き合う姿。
傷を探すのではなく、その奥にあるものを見ようとする手。
「お嬢様。」
声を掛けられ、イリスは振り返る。
「本日のご予定ですが。」
「ええ。商会へ行くわ。」
いつもの予定。
父の仕事を見るために街へ出る、何も変わらない一日。そう思っていた。
馬車の窓から、街並みを眺める。
商人たちの声。行き交う人々。荷を運ぶ馬車。いつも見ている景色。
その中でふと、視線が一つの路地へ向いた。
細い道の先。そこにあるものを知っている。
古びた看板。小さな扉。静かな工房。
「……。」
イリスは視線を戻した。
今日は商会へ行く。それだけのはずだった。
修復を頼むものはない。話す理由もない。
それなのに、なぜかあの場所が頭から離れなかった。
「散策して帰ります。」
使用人にそう伝え馬車を戻らせる。
商会での用事を終えた帰り道。
気付けば、いつもとは違う道を歩いていた。
「……あれ?」
自分でも驚く。
いつの間にか、足が向いていた。
石畳の先、人通りの少ない通り。
…以前訪れた場所。
工房の前に立つと、扉の向こうからかすかな音が聞こえる。
金属を削る音。何かを直す音。あの日と同じ音。
イリスはしばらく、その場に立っていた。
理由を探す。けれど、見つからなかった。
ただ。もう一度、この扉を開けてみたいと思った。
ゆっくりと手を伸ばし、扉に触れる。
その瞬間。なぜか、扉の向こうが少しだけ気になった。
何を期待しているのか自分でも分からない。
気付けば、もう扉を押していた。
扉が開く。
静かな空気が流れ込む。以前と変わらない工房。
整えられた机。並べられた工具。
そして。
奥で作業を続ける一人の職人。
ラナンは顔を上げた。
一瞬だけ、目が合う。
「……イリスさん。」
名前を呼ばれた。
たったそれだけ。
けれど、なぜか少し嬉しかった。
「こんにちは。」
イリスは微笑む。
ラナンは小さく頷き、再び作業へ戻る。
それ以上の言葉はない。
けれど。
不思議と居心地は悪くなかった。
静かな工房。小さな作業音。時折聞こえる、道具の触れ合う音。
以前はただ静かだと思っていた場所が、今日は少しだけ温かく感じた。
イリスは窓辺へ目を向ける。
差し込む光が、机の上を照らしている。
その光の中で、ラナンの手が動いていた。
丁寧に。慎重に。壊れたものを、あるべき場所へ戻していく。
その姿を見ながら、イリスは思った。
光の中で動く指先は、少しも迷いがなかった。
壊れたものに触れる手つきは、不思議なくらい静かだった。
その手を見ているだけで、この人は何度も、何度も同じように誰かの大切なものと向き合ってきたのだと、イリスは思った。
その日、イリスは長く話さなかった。
ラナンもほとんど言葉を発しなかった。
それでも、帰る頃には不思議な満足感があった。
扉を閉める前、イリスは振り返る。
ラナンは、もう作業へ戻っていた。
帰り道。
石畳を歩きながら、イリスはふと足を止めた。
「……。」
小さく笑う。
次は、どんな理由をつけよう。
その顔はまるで、春を待つ少女のようだった。
この物語は、一人の修復師と物を大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
二人の物語がついに交錯し始めます。
ゆっくりと進む物語ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。
毎週水、日曜の19時頃に最新話をアップする予定です。
よろしくお願いします。




