第十一章 新しい命 第四部 未来の足音
それから幾つかの季節が過ぎた。
朝の光が差し込むたびに、イリスは以前よりわずかに長く眠るようになっていた。
食事の途中で手を止めることも増えていた。
しかし、それが何を意味するのか、二人にはまだ分かっていなかった。
ある朝、イリスは食卓に用意された珈琲へ手を伸ばした。
湯気とともに、いつもの香りが立ち上る。
しかし、口をつける前にその手は止まった。
「……今日は、いらないわ。」
向かいに座っていたラナンが顔を上げる。
「嫌いだったか?」
「ううん。」
イリスはカップを見つめた。
「なんだか、今日は飲みたくないの。」
ラナンはそれ以上は尋ねなかった。
代わりに珈琲を自分の方へ引き寄せる。
「じゃあ、無理するな。」
「ありがとう。」
イリスは微笑んだ。
その日の午後も、イリスは工房へ向かうため屋敷を出た。
しかし、いつもの道を歩いている途中で、突然足が止まった。
胸の奥から何かが込み上げてくる。
イリスは慌てて口元を押さえた。
近くの壁に手をつく。
「……大丈夫。」
自分に言い聞かせるように呟く。
しばらくすると、その波は静かに引いていった。
顔を上げると、通りの向こうに工房が見える。
扉の前まで歩み寄り、鐘を鳴らす。
カラン、といつもの音がした。
「来たか。」
「うん。」
ラナンは作業台から顔を上げた。
イリスの顔を見るなり、すぐに眉をひそめる。
「顔色が悪い。」
「そう?」
「ああ。」
ラナンは椅子を引いた。
「座れ。」
イリスは言われた通りに腰を下ろした。
「今日は帰った方がいい。」
「でも、せっかく来たのに。」
「仕事は逃げない。」
ラナンは水を汲み、イリスの前へ置いた。
「ゆっくり飲め。」
「ありがとう。」
イリスは水を口に含んだ。
冷たい水が、乾いた喉を静かに通っていく。
ラナンは向かいの椅子に座った。
「最近、こういうことが多いのか?」
「……少しだけ。」
「いつから?」
イリスは考える。
「朝、珈琲を飲めなくなったのは、何日か前。」
「他には?」
「眠いことくらい。」
ラナンは黙った。
その視線はイリスの顔から離れない。
「ラナン?」
「……明日、医者に行こう。」
「大丈夫よ。」
「大丈夫かどうか、見てもらえばいい。」
いつものぶっきらぼうな口調だった。
しかし、その手はイリスの手を包むように握っていた。
「心配してるの?」
「決まってる。」
あまりにも迷いのない返事に、イリスは目を丸くして小さく笑った。
ラナンは握った手を離さなかった。
翌日。
二人は街の医師を訪ねた。
白い壁の診察室には、薬草の匂いが漂っていた。
医師はイリスの話を聞き、いくつか尋ねた。
そして最後に、静かに二人を見た。
「おめでとうございます。」
イリスは瞬きをした。
「……え?」
「お子さんがいらっしゃいます。」
部屋の中が、急に静まり返った。
イリスは自分のお腹へ目を落とした。
まだ何も変わっていない。
いつもの身体と、何も変わらない。
それでも、その中に小さな命がある。
「……本当に?」
「ええ。」
隣を見ると、ラナンは何も言わず医師の言葉を聞いていた。
しかし、握られた手には力がこもっている。
イリスはその手を握り返した。
「ラナン。」
「ああ。」
「私たちの子供よ。」
ラナンはしばらくイリスを見つめていた。
やがて、ほんのわずかに笑った。
「……そうだな。」
帰り道。
二人はいつもよりゆっくりと歩いた。
イリスは何度も自分のお腹へ手を置いた。
まだ膨らんでもいない。
まだ動きもしない。
それでも、そこには確かに二人の知らない未来が始まっていた。
ラナンが隣から手を伸ばす。
イリスの手の上に、自分の手を重ねた。
「大事にしよう。」
「うん。」
「お前も。」
イリスは顔を上げた。
「私も?」
「ああ。」
ラナンはイリスの手を握った。
「二人ともだ。」
夕暮れの街を、二人は並んで歩いた。
その歩幅は、いつもの半分ほどだった。
まるで、二人の間に生まれた小さな未来に歩調を合わせるように。
第十一章 終
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
ゆっくりと進む物語ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。




