第十章 修復師として 第四部 夫婦の誓い
結婚式の前夜、メルシエ家の大広間には、いつもより多くの人が集まっていた。
長い卓の上には蝋燭が並び、その中央には一枚の書類が置かれている。
公証人が椅子に腰を下ろし、持参金や財産について一つずつ読み上げていく。
ラナンはその隣で、黙って耳を傾けていた。
書類に記された数字は、自分がこれまで扱ってきた金額とはあまりにもかけ離れていた。
工房で修復する古い銀器や家具なら、傷の一つまで見れば価値が分かる。
けれど、紙の上に並ぶ財産の大きさは、ラナンには実感できなかった。
それでも、隣に座るイリスだけはいつもと変わらない。
赤と青の髪飾りをつけ、静かにラナンを見ている。
「ラナン。」
「ん?」
「大丈夫?」
「……分からない。」
イリスが小さく笑った。
「私も少し緊張しているわ。」
公証人が二人の前へ書類を差し出した。
ラナンはペンを握る。
普段、工具を持つ手とは違う感覚だった。
それでも名前を書き終える。
続いて、イリスが署名した。
それを見届けた公証人が書類を閉じる。
「これで契約は成立しました。」
周囲から静かな拍手が起こった。
ラナンは顔を上げる。
何人かの視線が、自分へ向けられていた。
好意的なものばかりではない。
豪商の娘の隣に座る、身なりの良いとはいえない男。
その姿だけを見れば、釣り合っているとは思われないだろう。
けれど、その中の一人が小さな声で言った。
「例の修復師だろう。」
「例の?」
「メルシエ家の天秤を直したという……。」
「十八世紀のあれを?」
「ああ。何人も断ったものを、一人で直したそうだ。」
囁きは、少しずつ広がっていった。
ラナンは聞こえないふりをした。
イリスはそんなラナンの手を、そっと握った。
その夜、広間では舞踏会が開かれた。
音楽が流れ、シャンデリアの光が人々の姿を照らす。
ラナンは踊りを得意としていなかった。
「ラナン。」
「……無理だ。」
「まだ何も言っていないわ。」
「顔に書いてある。」
イリスが笑う。
「一曲だけ。」
「分かった。」
二人が踊り始める。
不器用な足取りだったが、イリスは楽しそうだった。
翌朝。
市役所の式場で、二人は法の前に立った。
婚姻に関する言葉が読み上げられ、二人は夫婦となることを認められた。
ラナンは隣に立つイリスを見た。
イリスも彼を見ていた。
それだけでよかった。
その後、二人は教会へ向かった。
高い天井へ音楽が響き、生花の香りが静かに広がっていた。
イリスは純白の絹のドレスをまとい、長いヴェールの上にはオレンジの花が飾られている。
その姿を見た瞬間、ラナンは言葉を失った。
イリスが少しだけ首を傾ける。
「……どう?」
「……綺麗だ。」
それだけだった。
けれど、イリスは嬉しそうに笑った。
祭壇の前で、二人は互いを見つめる。
周囲には、商人、親族、メルシエ家と付き合いのある者たちもいる。
その中には、まだラナンを不釣り合いだと思う者もいるだろう。
それでも、今は誰も口を挟まなかった。
あの豪商レイモンが認めた男。
メルシエ家の家宝を直した修復師。
そして何より、娘が自ら選んだ男。
ラナンはイリスの手を取った。
それに気づいた細い指が、自分の手を握り返す。
誓いの言葉を交わし指輪が交換される。
そして二人は、夫婦になった。
式を終えると、二人は大広間へ戻った。
銀の食器が並び、クリスタルのグラスが光を返している。
音楽が再び始まり、祝福の声が重なった。
ラナンはその喧騒の中で、隣にいるイリスを見た。
「これからも、工房へ行っていい?」
イリスが笑う。
「もちろん。」
「帰ってくるのも、ここでいいのか。」
「うん。」
イリスはラナンの手を握った。
「ここが、私たちの家になるんでしょう?」
ラナンはしばらく彼女を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「……そうだな。」
音楽が二人の間を流れていく。
窓の外では、夕暮れの光が街を包んでいた。
修復師と豪商の娘。
身分も、生まれた場所も、歩いてきた道も違う。
それでも二人は、同じ場所へ帰る夫婦になった。
第十章 終
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
ゆっくりと進む物語ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。




