第十章 修復師として 第三部 帰る場所
森を抜け、屋敷へ戻る道を三人で歩いていた。
天秤の修復が終わったことで、来た時よりも足取りは軽いはずだった。
それでも、ラナンの胸には別の重さが残っていた。
先ほどのレイモンの言葉が、何度も頭の中に浮かんでいる。
反対する理由はない。
その言葉だけで十分なはずなのに、屋敷の大きさを目にするたび、自分が今までいた場所との違いを思い知らされる。
やがて玄関へ着くと、レイモンが足を止めた。
「ラナン。」
「はい。」
「君は、工房で寝泊まりしているのだったな。」
「……はい。」
突然の問いに、ラナンは少し戸惑った。
「今後も、そのつもりか。」
「仕事がありますから。」
答えたものの、ラナンはレイモンの顔を見た。
何を聞かれているのか、まだ分からない。
イリスも黙って父を見ていた。
何か言いたそうではある。
けれど、口を挟まない。
父親が何を考えているのかを確かめるように、静かにその表情を見つめている。
「結婚しても、工房に寝泊まりするつもりか。」
「……はい。」
ラナンは答えた。
「そのほうが仕事を続けやすいので。」
レイモンは少し黙った。
そして、屋敷を見上げる。
「それでは、君に部屋を用意しよう。」
「……え?」
ラナンの足が止まった。
イリスも目を見開く。
「お父様……。」
「何だ。」
「いえ……。」
イリスはそれ以上言わなかった。
レイモンはラナンを見る。
「君は今日、メルシエ家の家宝を直した。」
「はい。」
「十八世紀から受け継がれてきた天秤だ。何人もの修復師が手をつけようとして、結局誰も直せなかった。」
ラナンは黙っている。
「それを君は直した。」
「俺は、直しただけです。」
「その『だけ』ができなかった。」
レイモンの言葉は静かだった。
「私は商人だ。人の価値を、家柄だけで決めるつもりはない。」
ラナンの目がわずかに動いた。
「君が何者なのかは、今日まで知らなかった。だが、君がどんな仕事をする人間なのかは、今日分かった。」
レイモンはラナンの手を見る。
細かな傷の残る、職人の手だった。
「腕のいい修復師だ。」
ラナンは返事ができなかった。
自分の仕事を褒められることはあっても、これほどはっきりと認められたことはなかった。
まして、その相手はイリスの父親だった。
「娘の夫になる男として、君をこの家に迎える。」
レイモンは続けた。
「それに、君ほどの腕を持つ職人がメルシエ家にいることは、私にとっても悪い話ではない。」
ラナンは目を伏せた。
嬉しい。
そう思うより先に、戸惑いがあった。
この屋敷に自分の部屋がある。
自分が、ここに住む。
そんなことを考えたことすらなかった。
「……俺が、ここに?」
「ああ。」
ラナンの声がわずかに低くなる。
「でも、俺は……。」
続く言葉が出てこない。
工房で寝泊まりしてきた。
朝になれば仕事をして、夜になればそのまま眠る。
それが自分の暮らしだった。
立派な部屋も、広い寝台も、自分には必要ないと思っていた。
けれど、イリスと結婚する。
その先のことを考えれば、いつまでも工房だけを帰る場所にするわけにもいかない。
「工房で仕事をすることを止めるつもりはない。」
レイモンが言った。
「仕事はこれまで通り続ければいい。朝に工房へ行き、終われば屋敷へ戻ればいい。」
ラナンはイリスを見る。
彼女は何も言わず、父とラナンを交互に見ていた。
自分から望んだわけではない。
ただ、父がそう言ってくれたことを、嬉しそうに受け止めている。
「……イリスは、どう思う。」
ラナンが尋ねた。
「私は……。」
イリスは一度父を見る。
それから、ラナンへ向き直った。
「ラナンが嫌じゃなければ、私は嬉しい。」
その言葉に、ラナンは少しだけ目を細めた。
「嫌ではない。」
ただ、戸惑っている。
それを隠さず、ラナンは続けた。
「こんなところで寝るなんて、考えたことがなかった。」
イリスが小さく笑う。
「じゃあ、これから考えればいいわ。」
「……そうだな。」
レイモンが屋敷の中へ向かう。
「部屋を見てみるか。」
ラナンは一瞬、その場に残った。
そして、イリスの手を取る。
いつものように、その手は温かかった。
二人は並んで屋敷の中へ入っていった。
階段を上がり、廊下の奥にある一室の扉が開かれる。
そこには大きな窓と、木製の机、そして二人で使えるほどの寝台が置かれていた。
ラナンは入口から動かなかった。
「……俺の部屋?」
「ああ。」
レイモンが答える。
ラナンは室内を見渡した。
工房とは何もかも違う。
炉もない。
工具もない。
壊れた物もない。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
隣に立つイリスを見る。
「ここに帰ってくるのね。」
イリスが呟いた。
ラナンはしばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「……うん。」
その一言を口にするまでに、少しだけ時間がかかった。
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
ゆっくりと進む物語ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。




