第十章 修復師として 第二部 父の願い
イリスは地下室に残り、ラナンとレイモンは少し離れた場所へ歩いていった。
地下室の奥には、小さな机と二脚の椅子が置かれていた。古い洋館を管理するためだけに使われているのか、机の上には薄い埃が積もっている。
レイモンが椅子へ腰を下ろす。
ラナンも向かいに座った。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
遠くでは、イリスが天秤を眺めている気配がする。
「……娘と結婚したいそうだな。」
「はい。」
ラナンはまっすぐ答えた。
「身分が違うことも分かっている。」
「はい。」
「メルシエ家の娘を妻に迎えるということが、君にとってどういうことなのかも?」
「……全部は分かりません。」
レイモンの眉がわずかに動いた。
「正直だな。」
「知らないことを、知っているふりはできません。」
ラナンは自分の手を見た。
「俺はずっと工房で仕事をしてきました。物を直すことしか考えてこなかったので、家柄とか、そういうことはよく分かりません。」
レイモンは黙って聞いている。
「でも、イリスと一緒にいたいという気持ちは分かります。」
その言葉に、レイモンは目を伏せた。
「……あの子は昔から、自分で決めたことを曲げないところがある。」
「知っています。」
「君と出会う前からそうだった。」
「はい。」
「それでも、私は父親だ。」
レイモンの声が少し低くなる。
「娘が幸せになれるかどうかは、考えなければならない。」
ラナンは静かに頷いた。
「分かります。」
「君には、イリスに不自由をさせないだけのものを持っているとは思えない。」
「はい。」
「それでも、娘を連れていくつもりか。」
ラナンは少しだけ黙った。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「連れていく、とは思っていません。」
「……。」
「イリスが俺と一緒にいたいと言ってくれるなら、一緒にいたいです。」
レイモンは何も言わない。
「イリスの家を捨てさせたいわけでもありません。俺の工房に閉じ込めたいわけでもない。」
ラナンの声は穏やかだった。
「ただ、これから先も隣にいたい。」
その言葉を聞き、レイモンは小さく息を吐いた。
「君は、あの子の何が好きなんだ。」
ラナンは少し考えた。
すぐには答えなかった。
「……分かりません。」
「分からない?」
「一つに決められないです。」
ラナンはわずかに笑った。
「工房に来る時、いつも楽しそうにしているところも好きです。何も言わずに隣にいるところも好きです。」
地下室の天井を見上げる。
「俺が仕事をしていても邪魔をしないで、ただそこにいてくれる。それなのに、帰る時になると少し寂しそうにする。」
ラナンの目が柔らかくなる。
「そういうところが好きです。」
レイモンは黙って聞いていた。
「たぶん、俺はイリスといる時の自分が好きなんだと思います。」
その言葉に、レイモンの表情がわずかに変わった。
「……そうか。」
しばらくして、レイモンは立ち上がった。
ラナンも続いて立つ。
「私は、娘に幸せになってほしい。」
「はい。」
「だから、君が娘を泣かせるようなことがあれば、私は君を許さない。」
ラナンは静かにレイモンを見た。
「分かりました。」
「簡単に言うな。」
「……すみません。」
レイモンは少しだけ笑った。
「君らしいな。」
二人は地下室の入口へ戻った。
イリスは天秤の前に立っていた。
「終わったの?」
ラナンへ向けられた笑顔に、ラナンは頷く。
「ああ。」
「何を話していたの?」
ラナンはレイモンを見る。
レイモンは娘を見つめた。
「君のことだ。」
「私?」
「ああ。」
イリスが少し不安そうにラナンを見る。
ラナンはその手をそっと取った。
「結婚のこと。」
イリスの目が大きくなる。
「……お父様。」
レイモンは娘の顔を見つめた。
幼い頃から変わらない笑顔が、そこにあった。
ただ、今はその隣に、娘が自分で選んだ男がいる。
「二人で決めなさい。」
イリスの瞳が揺れる。
「お父様……。」
「私はもう、反対する理由はない。」
イリスの顔がゆっくりとほころんだ。
ラナンは何も言わなかった。
ただ、握った手に少しだけ力を込める。
地下室の奥で、古い天秤が静かに光を返していた。
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
ゆっくりと進む物語ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。




