第九章 想いと決意 第三部 父との対面
玄関の扉が閉じると、外の風が遠ざかり、屋敷の中には静かな空気が戻った。
ラナンは広い玄関ホールを見渡した。高い天井から吊るされた照明が午後の光を受け、磨かれた床には窓から差し込む光が細長く伸びている。
「こちらでございます。」
二人の前に、一人の使用人が歩み寄ってきた。
落ち着いた身なりをした男だった。深く頭を下げると、イリスへ視線を向ける。
「お帰りなさいませ、イリス様。」
「ただいま。」
イリスは穏やかに答えた。
使用人は続けてラナンへ目を向ける。
「ラナン・モロー様でいらっしゃいますね。」
「……はい。」
「旦那様がお待ちです。こちらへどうぞ。」
ラナンは小さく頷いた。
「分かりました。」
使用人が歩き始める。
二人はその後に続いた。
長い廊下にはいくつもの扉が並び、壁には古い絵画や装飾品が飾られていた。ラナンはそれらへ目を向けたが、足を止めることはなかった。
自分がこれから会う人のことを考えると、周りを見る余裕などほとんどなかった。
隣を歩くイリスが、そっと彼の袖に触れる。
「大丈夫?」
「……大丈夫だ。」
「緊張しているでしょう。」
「少しだけ。」
イリスが微笑む。
「お父様は、怖い人ではないわ。」
「でも、父親だろ。」
「うん。」
その一言に、ラナンは黙り込んだ。
やがて廊下の奥で、使用人が足を止める。
「こちらが旦那様のお部屋でございます。」
大きな扉の前だった。
使用人が扉の横に立ち、軽く頭を下げる。
「旦那様、イリス様がお見えになりました。」
少しの間があった。
「……通してくれ。」
中から落ち着いた声が返ってきた。
「失礼いたします。」
使用人が扉を開ける。
書斎の中には、窓から差し込む光が静かに広がっていた。
大きな机の向こうに、一人の男が座っている。
レイモンだった。
使用人が一歩下がる。
「ラナン・モロー様をお連れいたしました。」
「ご苦労。」
「失礼いたします。」
扉が静かに閉じられた。
部屋に残ったのは、レイモンとイリス、そしてラナンの三人だった。
レイモンは椅子に座ったまま、しばらくラナンを見つめていた。
ラナンもまた、黙ってその視線を受け止める。
修復の仕事では、物の表面をじっと見ることに慣れている。
けれど、人の目から何を読み取ればいいのかは、今ひとつ分からなかった。
「……座りなさい。」
レイモンが静かに言った。
「はい。」
ラナンはイリスと並んで椅子へ腰を下ろした。
レイモンは二人を見た。
娘の隣にいる男。
それだけで、胸の奥に複雑なものが生まれる。
「ラナン・モロー。」
「はい。」
「娘から、君の話は聞いている。」
ラナンはわずかに姿勢を正した。
「……そうですか。」
「修復師だそうだな。」
「はい。」
「どのような仕事をしている。」
「壊れたものを直しています。」
「それだけか。」
ラナンは少し考えた。
「……壊れる前の姿に戻すだけじゃありません。」
レイモンが黙っている。
「傷が残っていても、そのまま残すことがあります。」
「なぜだ。」
「その傷も、その物が過ごしてきた時間だからです。」
レイモンの視線が、ラナンの手へ落ちた。
指先には細かな傷が残っている。
「職人の手だな。」
「……はい。」
「父親も職人だと聞いた。」
ラナンは少し驚いた。
「イリスから聞いたんですか。」
「そうだ。」
ラナンは自分の手を見つめた。
「父は宝飾細工師です。祖父は鍛冶職人でした。」
「では、祖父から父へ、父から君へと職人の仕事が続いているわけか。」
「そうですね。」
ラナンは少しだけ笑った。
「俺は修復師ですけど。」
「修復師になったきっかけは?」
「祖父です。」
ラナンは静かに答えた。
「祖父のつてで、修復師の師匠に出会いました。そこで仕事を教えてもらいました。」
レイモンは頷いた。
その目が、再びラナンへ向く。
「そして、娘と出会った。」
「はい。」
「イリスをどう思っている。」
ラナンは一瞬だけ黙った。
隣を見ると、イリスが静かにこちらを見ていた。
「……愛しています。」
レイモンの表情は変わらなかった。
「身分が違うことは分かっているか。」
「分かっています。」
「それでもか。」
「それでもです。」
ラナンの声は静かだった。
「俺は、イリスと一緒にいたい。」
イリスが小さく息を呑む。
「何かを与えられるかと聞かれたら、たぶん何も言えません。」
ラナンはレイモンをまっすぐ見た。
「俺には大きな屋敷も、広い土地もありません。」
少しだけ間を置く。
「でも、イリスといる時間を大切にすることはできます。」
書斎の中に、静かな沈黙が落ちた。
レイモンはしばらくラナンを見つめていた。
やがて、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「……なるほど。」
それだけを言うと、机の脇に置かれた古い鍵へ手を伸ばした。
ラナンの視線が、その鍵へ向く。
「君の仕事について、もう少し聞かせてもらおう。」
レイモンは鍵を手に取った。
「その前に、見てもらいたいものがある。」
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は、ついに父親と対面する章です。イリスの父親がどう考えているのか読み取ってもらえると嬉しいです。




