第九章 想いと決意 第四部 森の向こうの洋館
レイモンは古い鍵を手にしたまま、書斎を出た。
イリスとラナンも、その後に続く。
屋敷の玄関へ戻ると、レイモンは外套を手に取った。
「どこへ行くんですか?」
イリスが尋ねる。
「別館だ。」
「森の向こうの?」
「ああ。」
レイモンはそれだけ答えた。
ラナンは二人の後を歩きながら、手の中にある古い鍵を見た。先ほどから気になっていた鍵だった。大きく、重く、普通の鍵とは違う造りをしている。
屋敷を出ると、三人は庭を抜け、その先に広がる森へ向かった。
木々の間には細い道が続いている。
陽の光は枝葉に遮られ、足元にはまだ昼間だというのに薄い影が落ちていた。
イリスはラナンの隣を歩きながら、静かに前を見ていた。
「この森の向こうに、使われていない洋館があります。」
「知らなかった。」
「私も、詳しくは知らないの。」
イリスは少しだけ困ったように笑った。
「お父様が管理している場所だから。」
しばらく歩くと、木々の向こうに灰色の屋根が見えた。
森の中にひっそりと建つ洋館だった。
壁には長い年月が刻まれ、窓には薄く埃が積もっている。それでも建物そのものは崩れることなく、静かにそこに佇んでいた。
「……ここが。」
ラナンが足を止める。
「ああ。」
レイモンは玄関へ向かった。
大きな扉の前に立ち、先ほどの鍵を鍵穴へ差し込む。
カチリ、と小さな音がした。
重い扉が開く。
「この鍵で開くんですか?」
ラナンが尋ねる。
「この洋館は、当主が持つ親鍵でしか開けられない。」
レイモンは扉を押し開いた。
中は静まり返っていた。
家具には布がかけられ、壁には古い肖像画が並んでいる。誰も住んでいないはずなのに、そこには長い時間を守るような空気が残っていた。
三人は奥へ進み、やがて 地下へ続く扉の前に着く。
レイモンは再び親鍵を取り出した。
鍵穴へ差し込む。
また、同じ音がした。
カチリ。
扉が開く。
冷たい空気が螺旋階段の下から流れてきた。
ラナンはその空気を感じながら、ゆっくりと階段を下りた。
地下室は暗かった。
壁に設置された小さな灯りをレイモンが点けると、奥に大きな影が浮かび上がった。
布をかけられた何かが、静かにそこに置かれている。
「これが……?」
イリスが小さく呟く。
「そうだ。」
レイモンはその前まで歩き、布を外した。
そこに現れたのは、一台の古い天秤だった。
支柱には細かな装飾が施され、左右の皿は細い鎖によって吊られている。長い年月を経た金属には、いくつもの傷とくすみが残っていた。
ラナンは一歩近づく。
そして、触れることなく天秤を見つめた。
金属の状態。鎖のつなぎ目。支柱の歪み。皿の傾き。視線が一つずつ細部を追っていく。
「十八世紀のものだ。」
レイモンが言った。
「商家メルシエ家に伝わる家宝だ。」
「これを、修復するんですか。」
「そうだ。」
(これが俺に課された試練か。)
ラナンは天秤の前にしゃがみ込んだ。
「今まで何人もの修復師に見せた。」
レイモンの声が地下室に響く。
「だが、誰も引き受けなかった。」
ラナンは、均衡を失った天秤へ手を伸ばしかけた。
しかし、その手を止める。
「まだ、触らないんですか?」
イリスが尋ねる。
「見るのが先だ。」
ラナンは静かに答えた。
「触る前に、どこが壊れているのか考える。」
レイモンは黙って見ている。
ラナンは天秤の周囲をゆっくりと歩いた。
正面から見た時には分からなかった歪みが、横から見るとわずかに浮かび上がる。
「……なるほど。」
ラナンが小さく呟いた。
「分かるの?」
イリスが尋ねる。
「まだ何とも言えない。」
ラナンは首を横に振った。
「でも、直せないとは思わない。」
その言葉に、レイモンの目がわずかに動いた。
「ならば、触ってみろ。」
レイモンは天秤の中央へ手を伸ばした。
そこには鍵穴があった。
ラナンが目を細める。
「……鍵穴?」
「ああ。」
レイモンは親鍵を差し込んだ。
カチリ、と音がする。
天秤の内部から、かすかな金属音が響いた。
長い年月の間、閉ざされていたものが、ゆっくりと目を覚ますような音だった。
レイモンは鍵を抜く。
「ここまでが、私にできることだ。」
ラナンは天秤を見つめた。
「……分かりました。」
袖をまくる。
地下室の静かな空気の中で、ラナンの指が工具へ伸びた。
その隣で、イリスは黙って彼を見つめていた。
森の向こうに残された古い洋館の中で、古くから眠っていた天秤が、初めて修復師の手を待っていた。
第九章 終
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は、ついに父親と対面する章です。イリスの父親がどう考えているのか読み取ってもらえると嬉しいです。




