第九章 想いと決意 第二部 父の待つ場所へ
午後の光が、石畳の道を淡く照らしていた。
ラナンは工具を持ちながら工房の扉を閉め、鍵をかけると、そのまま隣に立つイリスを見た。いつもなら工房へ歩いてくる彼女が、今日は自分を迎えに来ている。それだけで、これから向かう場所がいつもとは違うことを思い知らされる。
「……本当に工具をもって行くのか。」
「うん。お父様がそう言ってました。」
「そうか。」
ラナンは小さく息を吐いた。
なぜ工具が必要なのか。それはおそらく、自分を試すつもりなのだろうと見当がついた。
目の前の道は、いつもの工房へ続く道とは違う。イリスが暮らしている屋敷へ向かう道だった。
「緊張してる?」
「していない。」
「本当に?」
「……少し。」
イリスがくすりと笑う。
「お母様の時より?」
「あの時は、知らなかったからだ。」
「じゃあ、今は?」
「知っているから困る。」
「ふふ。」
イリスの笑い声が、午後の風に混ざった。
二人は並んで歩いた。
ラナンは何度も手を握り直した。修復の仕事なら、どれほど難しいものでも落ち着いて向き合える。壊れた金具も、ひびの入った木箱も、長い年月を経た装飾品も、まずは傷を見ればいい。
けれど、人と向き合うことは違った。
ましてや、これから会うのはイリスの父親だ。
「ラナン。」
「ん。」
「大丈夫よ。」
「……何が。」
「お父様のこと。」
イリスは前を向いたまま言った。
「厳しい人だけれど、ちゃんと人を見る人だから。」
「俺を見て、駄目だと言われるかもしれない。」
「それなら、私も一緒にいる。」
ラナンは足を止めそうになった。
「……それは困る。」
「どうして?」
「お前まで怒られる。」
イリスは目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「大丈夫。私、お父様に怒られるくらいで嫌いになったりしないもの。」
「そういう問題じゃない。」
「じゃあ、どういう問題?」
ラナンは答えなかった。
代わりに、隣を歩くイリスの髪を見た。
赤と青の髪飾りが、歩くたびに小さく揺れている。
その二つを見ていると、少しだけ胸の奥が落ち着いた。
「……お前の父親に、ちゃんと話す。」
「何を?」
「お前と一緒にいたいってことを。」
イリスは何も言わなかった。
ただ、頬が少し赤くなる。
「それだけ?」
「それ以上、何を言えばいい。」
「もっとあるでしょう。」
「ない。」
「愛している、とか。」
ラナンは黙った。
イリスが横から顔を覗き込む。
「言える?」
「……言う。」
イリスの目が嬉しそうに細くなる。
「うん。」
二人は再び歩き始めた。
しばらくすると、街の景色が少しずつ変わっていった。
商店が並ぶ通りを抜け、広い通りへ出る。道の先には高い塀が見え、その向こうに木々の梢が揺れていた。
イリスはその先を見つめる。
「もうすぐです。」
「あれか。」
「そう。」
門を抜けると、広い庭が二人を迎えた。
整えられた花壇の向こうに、白い壁の大きな屋敷が建っている。
ラナンは足を止めた。
何度か聞いていたイリスの家が、初めて目の前に現れた。
「……大きいな。」
「そう?」
「そうだ。」
イリスは少しだけ困ったように笑った。
「前にも言ったでしょう。うちは、少し裕福なの。」
「少し、じゃないだろ。」
「……そうかもしれない。」
ラナンは屋敷を見上げた。
けれど、その視線はすぐにイリスへ戻った。
「でも、俺はお前の家を見に来たんじゃない。」
「え?」
「お前の父親に会いに来た。」
イリスは目を瞬いた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「うん。」
二人は玄関へ向かう。
大きな扉の前に立つと、ラナンは一度だけ深く息を吸った。
工房で炉に火を入れる時よりも、修復の難しい品を前にした時よりも、胸が重かった。
イリスがそっと手を伸ばす。
「ラナン。……私が隣にいるから。」
その言葉に、ラナンは静かに頷いた。
「……分かってる。」
扉が開く。
屋敷の中から、静かな空気が流れてきた。
ラナンは一歩を踏み出す。
これまで自分が知らなかった世界へ、イリスとともに入っていく。
その先で待っているのは、愛する人の父親だった。
ラナンはもう一度だけ息を整え、イリスの隣を歩いた。
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は、ついに父親と対面する章です。イリスの父親がどう考えているのか読み取ってもらえると嬉しいです。




