第九章 想いと決意 第一部 父への告白
朝の光が、屋敷の長い廊下を柔らかく照らしていた。
窓の外では、庭師が伸びた枝を丁寧に剪定している。
いつもと変わらない朝だった。
けれど、イリスの胸の内だけは、昨日までとは違っていた。
廊下の角で足を止める。
その先にあるのは、父の書斎だった。
閉ざされた扉を見つめる。
その向こうにいる父へ、これから自分の大切な人のことを話さなければならない。
イリスは胸の前で手を重ねた。
「……お父様に、お話ししなければ。」
昨日、母には話した。
セシリアは驚きながらも、最後には穏やかに微笑んでくれた。
そして、イリスの背中をそっと押してくれた。
だから、もう迷う理由はなかった。
髪に触れる。
赤と青の髪飾りが、指先に触れた。
ラナンと会う日は、いつもこれを身につけている。
いつもの二つがそこにあるだけで、不思議と心が落ち着いた。
イリスは小さく息を吸う。
そして、書斎の扉をそっと叩いた。
「どうぞ。」
父の声が返ってくる。
「失礼いたします。」
扉を開けると、レイモンが机に向かっていた。
書類に目を落としていた顔が上がる。
「イリスか。」
「はい。」
「どうした。」
イリスは扉を閉める。
いつもなら何気なく歩ける数歩が、今日はやけに長く感じられた。
「少し、お話がございます。」
レイモンは筆を置いた。
娘の顔を静かに見る。
「……珍しいな。」
「そうでしょうか。」
「お前がそのような顔をしている時は、決まって何かある。」
イリスは目を瞬いた。
「どのような顔でしょう。」
「大切なことを言おうとしている顔だ。」
イリスは困ったように笑った。
「お母様にも、同じことを言われました。」
「セシリアにもか。」
「はい。」
レイモンの目が、わずかに細くなる。
妻も知っている。
ならば、娘が何を話そうとしているのか、おおよその見当はついていた。
「……聞こう。」
イリスは父の向かいに腰を下ろした。
膝の上で指を重ねる。
何度も考えてきた言葉なのに、いざ口にしようとすると喉の奥でつかえた。
「私……お付き合いしている方がいます。」
レイモンは何も言わなかった。
ただ、娘の言葉を待っている。
「お名前は、ラナン・モローと申します。」
「ラナン・モロー……。」
レイモンは、その名前を静かに繰り返した。
「どのような男だ。」
「修復師です。」
「修復師。」
「はい。」
イリスの表情が柔らかくなる。
「壊れてしまった物を、元の姿へ戻す仕事をしています。」
「そうか。」
「でも、ただ元に戻すだけではありません。」
イリスは髪飾りへ触れた。
「ラナンは、物に残った傷を大切にする人です。」
「傷を、か。」
「その物が歩いてきた時間だから、と。」
レイモンは黙って娘を見つめる。
「だから、傷があるからといって、全部を綺麗に消してしまおうとはしません。」
窓から差し込む光が、イリスの髪を淡く照らしていた。
「私、そういうところが好きなんです。」
レイモンの視線が、娘の髪飾りへ移る。
赤と青。
幼い頃から大切にしてきた二つの髪飾りだった。
最近、娘がそれを身につけることが増えたのも知っている。
屋敷を出る回数も増えた。
帰ってくると、以前よりよく笑う。
それが誰かの存在によるものだということにも、気づいていた。
「……その男とは、いつから付き合っている。」
「少し前からです。」
「私に話さなかったのはなぜだ。」
イリスは視線を落とす。
「……怖かったからです。」
「何がだ。」
「お父様が、身分を気にされると思って。」
レイモンは眉を寄せる。
「身分…か。」
「ラナンは、私とは違います。」
イリスはゆっくり顔を上げた。
「でも、私はそれを気にしていません。」
「お前は、その男を信じているのだな。」
「はい。」
返事に迷いはなかった。
「一緒にいると、安心するんです。」
イリスは少しだけ笑った。
「何も話さなくても、隣にいるだけで嬉しいんです。」
レイモンは椅子に背を預ける。
しばらく、沈黙が続いた。
「それで。」
やがて、父が口を開く。
「お前は、その男とどうしたい。」
イリスは一度だけ息を吸った。
「一緒にいたいです。」
そして、まっすぐ父を見る。
「ラナンと結婚したいと思っています。」
書斎の中で、時計の針が小さく音を刻んだ。
レイモンは目を閉じる。
娘が幼かった頃の姿が、ふと脳裏をよぎった。
庭を走り回り、転んでは膝を擦りむいて、それでも笑っていた少女。
その少女が今、自分の人生を決めようとしている。
やがて、レイモンは目を開いた。
「……そうか。」
「はい。」
「ならば、一度会おう。」
イリスの目が大きくなる。
「ラナンに、ですか。」
「それ以外に誰がいる。」
レイモンは小さく息を吐いた。
「お前がそこまで大切に思っている男なら、私もその男を知らなければならない。」
イリスの肩から、力が抜ける。
「ありがとうございます、お父様。」
「礼を言うのはまだ早い。」
レイモンの声は静かだった。
「私は父親だ。娘のこれからを、簡単に託すつもりはない。」
イリスは頷いた。
「分かっています。」
そして、立ち上がる。
扉へ向かいかけたところで、足を止めた。
「でも……。」
振り返る。
「ラナンなら、大丈夫です。」
その笑顔は、幼い頃と変わらなかった。
レイモンは何も答えなかった。
ただ、娘が部屋を出ていく背中を静かに見送った。
書斎に静寂が戻る。
レイモンは机の上に置かれた書類へ目を落とし、しばらくして引き出しを開けた。
そこには古い鍵が一つ、布に包まれて収められていた。
重い金属の冷たさが、指先に伝わる。
レイモンはそれを手に取り、静かに見つめた。
その鍵の先には、メルシエ家が長く守ってきたものがある。
誰にも直すことのできなかった、古い家宝。
「……修復師、か。」
窓の外で風が吹く。
木々の葉が揺れ、差し込んだ光が机の上を静かに滑っていった。
レイモンは鍵を握ったまま、何かを決めるように目を伏せた。
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は、ついに父親と対面する章です。イリスの父親がどう考えているのか読み取ってもらえると嬉しいです。




