第八章 想いの吐露 第二部 工房への道
翌朝。
イリスは母とともに、いつもの道を歩いていた。
朝の風が頬をかすめ、街路樹の葉を静かに揺らしている。
普段であれば一人で歩く道だった。
けれど今日は、隣に母がいる。
それだけで、いつもの道が少しだけ特別に見えた。
「ここを毎日歩いているの?」
「ええ。朝は、この道を通って工房へ向かうの。」
「随分と距離があるのね。」
「そうかもしれません。でも、歩いているとすぐです。」
そう答えながら、イリスは前を向いた。
けれど、口元には小さな笑みが浮かんでいる。
いつもなら、もう少し先にある角を曲がるころには、ラナンの工房のことを考えている。
今日は、その工房へ母を連れていく。
そう思うと、胸の奥が落ち着かなかった。
「ラナンという方は、どのような方なの?」
セシリアが尋ねた。
イリスは少しだけ考える。
「寡黙な方です。」
「まあ。」
「初めて会った頃は、何を考えているのか、よく分かりませんでした。」
イリスはくすりと笑った。
「今も、分からないことはありますけど。」
「それでも好きなのね。」
「……はい。」
その一言だけは、迷わなかった。
風が吹き、イリスの髪が揺れる。
赤と青の髪飾りが、朝の光を受けて静かに輝いた。
「物を修繕しているときは、とても穏やかな顔をするのです。」
「物に対して?」
「ええ。」
イリスは嬉しそうに頷いた。
「壊れたところを見つけても、すぐに新しいものへ取り替えたりはしないの。傷が残っていても、そのままにすることがあるのです。」
「それは、なぜ?」
「その傷も、その物が歩んできた時間の一部だからって。」
セシリアは娘の横顔を見つめた。
「あなたは、そういうところが好きなのね。」
「はい。」
イリスは胸元にそっと手を添えた。
衣服の下で、紫色の首飾りがかすかに揺れる。
「ラナンと一緒にいると、不思議と落ち着くのです。」
「何か特別なことをするの?」
「いいえ。」
イリスは首を横に振った。
「お話をしない時間もありますわ。でも、それが嫌ではないの。」
少し照れたように笑う。
「ただ隣にいるだけで、安心するのです。」
セシリアは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、娘の歩調に合わせて歩いている。
二人の靴音が、石畳の上で重なっていく。
やがて街の喧騒が遠のき、見慣れた道の先に小さな工房が見えてきた。
その瞬間、イリスの歩みがほんの少しだけ速くなる。
いつもの場所。
いつもの扉。
その向こうには、いつもの人がいる。
「……あれが、ラナンの工房なのね。」
「はい」
イリスは頷いた。
けれど、いつものようにすぐには歩き出せなかった。
母にラナンを紹介する。
そのことを考えると、心が落ち着かない。
ラナンはどんな顔をするだろうか。
きっと困った顔をする。
それから、いつものように少し無愛想に話すのだろう。
そう考えると、今度は笑いそうになった。
「どうしたの?」
「……ラナン、驚くでしょうね。」
イリスは小さく笑った。
「私がお母様を連れてきたなんて、きっと思っていないでしょうから。」
「あなたも楽しそうね。」
「だって……。」
イリスは工房を見つめた。
「大切な人に、大切な人を紹介するのですもの。」
言ったあとで、自分で恥ずかしくなったのか、頬をわずかに赤くする。
セシリアは何も言わず、穏やかに微笑んだ。
イリスは一度だけ息を整えた。
そして、いつもの扉へ歩み寄り手を伸ばす。
指先が、冷たい取っ手に触れた。
その向こうには、見慣れた作業台がある。
いつもの炉がある。
窓辺には、白い花がある。
そして、その場所で待っている人がいる。
イリスは母に振り返った。
「……行きましょう。」
「ええ。」
イリスは小さく頷き、そして扉を開いた。
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は、二人の関係が次に進むための章になります。優しい時間を感じてほしいと思っています。




