第七章 傍らに咲く想い 第四部 母の願い
夕暮れの光が、屋敷の窓から細く差し込んでいた。イリスの母、セシリアは窓辺に立ち、静かに庭を見下ろしていた。
庭の向こうで門が開く。帰宅した娘の姿が見えた。
赤と青の花を髪に飾り、軽やかな足取りで屋敷へと入っていく。その姿を認め、母はわずかに微笑んだ。
最近のイリスはよく笑う。幼い頃のように心から嬉しそうに。
何があったのか。セシリアにはおおよその見当がついていた。
髪飾りの留め具が直った頃から、娘の雰囲気が違っていた。
娘が誰かに会いに出かけていること。その相手が、おそらく修復師であること。そして、その間に身分の隔たりがあること。
詳細までは知らない。それでも、娘がその人物を大切に想っていることだけは理解していた。
夫もまた、薄々は察しているのだろう。近頃はイリスが外出するたび、何も言わず窓辺からその背を見送っている。
心配しているのだ。それは父親として当然の感情であった。
娘を守りたいという思いは、セシリアにも痛いほど理解できる。
しかし――。
セシリアは、自身が嫁いできた頃の記憶を静かに辿った。
その婚姻は、家同士の取り決めによるものだった。初めて夫と対面した日も、人柄より先に家柄や条件が語られた。
それが当然とされる時代であった。
不幸であったわけではない。今では夫を深く尊重し、信頼している。
それでも、ただ一つ心に残るものがあるとすれば――。
自らの意思で誰かを愛し、その相手を選ぶという経験を持たなかったことであった。
だからこそ、娘には同じ道を歩ませたくなかった。
自らの心で誰かを選び、その人と人生を共にしてほしい。
階段を上る足音が聞こえる。やがて、イリスが部屋へと入ってきた。
「お母様。」
「お帰りなさい。」
「ただいま。」
セシリアは娘の表情を見つめる。
やはり、晴れやかな顔をしていた。
「今日も会ってきたのね。」
イリスはわずかに驚いたように目を瞬かせる。
「……どうして分かるの?」
「顔を見れば分かりますよ。」
イリスは恥じらうように視線を伏せた。
「そんなに分かりやすい?」
「昔から変わりませんね。」
セシリアが穏やかに笑うと、イリスもつられるように微笑んだ。
その笑顔は、幼い日の面影をそのまま残している。
喜びを隠しきれず、すぐに表情に表れてしまうところも変わらない。
「お父様には、まだお話ししていないのね。」
その問いに、イリスは静かに頷いた。
「うん。」
「身分のことを気にされているから?」
「……うん。」
イリスは窓の外へと視線を向ける。
「お父様が心配してくれているのは分かっているの。でも、きっと反対されると思う。」
「そうでしょうね。」
セシリアは否定しなかった。
夫の性格を、誰よりも理解している。娘を大切に思うがゆえに、容易には認めないだろう。
「でも、イリス。」
「なに?」
「あなたが誰かを想うようになったことを、私は嬉しく思っています。」
イリスが振り返る。
「……お母様。」
「私にはできなかったことですから。」
セシリアは再び窓の外へと視線を戻した。
夕暮れの光が庭を柔らかく染めている。
「だからこそ、あなたには自分の意思で選んでほしいのです。」
イリスはしばらく言葉を返さなかった。
やがて、小さく微笑む。
「うん。私もそうしたい。」
その声には、迷いがなかった。
セシリアは、義母が娘に託した、娘の髪に揺れる二輪の花を見つめた。
その先にいる人物のことを、セシリアはまだ知らない。
どのような人なのか。どのような声で語るのか。どのような眼差しで娘を見つめるのか。
それでも、ただ一つ願うことがある。
娘がその人と共にいるとき、今と同じように笑っていてほしいということ。
そのことを思い、母は静かに微笑んだ。
夕暮れの庭には、穏やかな風が吹いている。
その風に乗るように、娘の小さな笑い声が静かに響いていた。
第七章 終
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は二人を見守る人達の想いを感じてほしいと思っています。




