第七章 傍らに咲く想い 第三部 師匠の訪問
昼を少し過ぎた頃、工房の扉に取り付けられた鐘が鳴った。
カラン。
ラナンは作業台から顔を上げる。
「はい。」
返事をしながら立ち上がる。
扉を開けると、そこには見慣れた男が立っていた。
「久しぶりだな。」
「……師匠。」
ラナンの師匠だった。
昔と変わらぬ姿に、ラナンはわずかに目を細める。
「急にいらっしゃるとは珍しいですね。」
「近くまで来ただけだ。」
師匠はそう言って工房の中へ入る。
そして足を止めた。
窓際に、見知らぬ女性が座っている。
白い花のそばで、本を閉じたところだった。
イリスもまた、突然現れた男を見つめている。
短い沈黙が落ちた。
「……だれだ?」
師匠の視線がラナンへ向く。
ラナンはわずかに言葉に詰まった。
「イリスです。」
それだけだった。
師匠は眉を上げる。
イリスが立ち上がった。
「初めまして。イリスと申します。」
「ああ。」
師匠は短く答えた。
それからラナンを見る。
その目が、わずかに細くなった。
「お前が工房に人を招くとはな。」
「特に問題はありません。」
「そうか。」
師匠はそれ以上追及しなかった。
工房の中を見渡す。
以前と変わらない。
工具は整えられ、修復を待つ品々が棚に並べられている。
炉も作業台も、昔から見慣れたものだった。
ただ一つ違うのは、窓際に白い花があり、そのそばに誰かがいることだった。
「最近の仕事はどうだ。」
「変わりありません。」
「嘘をつけ。」
「……どういう意味ですか。」
「昔のお前なら、客がいようが何だろうが、作業の手を止めなかった。」
ラナンは黙った。
師匠は作業台へ視線を落とす。
「だが今は、俺が入ってきたとき、真っ先にあの娘を見た。」
ラナンの眉がわずかに動いた。
イリスは何も言わず、二人のやり取りを見守っている。
師匠は小さく息を吐いた。
「なるほどな。」
「何がですか。」
「何でもない。」
師匠は工具を一つ手に取った。
「相変わらず、手入れは行き届いている。」
「それが仕事ですから。」
「仕事だけならな。」
その言葉に、ラナンは口を閉ざした。
師匠は工具を元の場所へ戻す。
そしてイリスへ視線を向けた。
「こいつは昔から、不器用な男だ。」
「……師匠。」
「人付き合いも得意ではない。自分のことすら後回しにする。」
「余計なことはお控えください。」
イリスが小さく笑う。
「そうなのですね。」
「師匠、やめてください。」
ラナンが恥ずかしそうに答える。
師匠は二人を交互に見た。
ラナンがこのように言葉を返すのは、久しく見ていなかった。
かつては必要最低限のことしか口にしなかった男だ。
仕事の話であればいくらでも語るが、それ以外には関心を示さなかった。
それが今は違う。
たった一人の存在がいるだけで、声の響きがわずかに柔らかくなっている。
師匠はそれ以上何も言わなかった。
やがてイリスが立ち上がる。
「それでは、そろそろ失礼いたします。」
「そうか。」
ラナンが扉まで見送る。
師匠はその背中を静かに見ていた。
扉が開く。
カラン。
「またね、ラナン。」
「ああ。」
扉が閉じる。
鐘の音が静かに消えていった。
しばらくの間、ラナンは扉を見つめていた。
「……大切な人か。」
背後から声がした。
ラナンは振り返る。
「……はい。」
師匠はそれだけ聞くと、満足したように頷いた。
「なら、大切にしろ。」
「承知しています。」
「仕事もだ。」
「承知しています。」
「ならいい。」
師匠は工房を見渡した。
物を直すことしか知らなかった弟子が、今は誰かを守ろうとしている。
それが良いことか悪いことかを判断する必要はない。
ただ一つ確かなのは、ラナンがもはや一人で生きる男ではないということだった。
「ラナン。」
「はい。」
「守りたいものができたのなら、それを守れる男になれ。」
ラナンは静かに頷いた。
「……はい。」
師匠は満足げに微笑むと、何事もなかったかのように作業台の工具へ視線を戻した。
工房には再び、金属を削る静かな音が響き始めた。




