第七章 傍らに咲く想い 第二部 板挟み
イリスが屋敷を出てから、しばらくの時が経っていた。
使用人は廊下を歩きながら、先ほどの旦那様の表情を思い返していた。
娘の行き先を知りたい。
しかし、それを尋ねることはできない。
その心情は、痛いほど理解できた。
自分もまた、事情を把握しているからである。
お嬢様が誰かに会いに行っていること。
しかし、その相手が誰であるのかを、明確に尋ねたことはなかった。
お嬢様はただ、「会いたい人がいる」とだけ口にしていた。
それでも長く仕えていれば、察することはできる。
帰宅した際のお嬢様の表情。
朝、出かける前の弾むような足取り。
そして、いつの頃からか身につけるようになった装い。
それらを重ね合わせれば、ひとりの人物像が浮かび上がる。
修復師。
以前、お嬢様が屋敷へ戻られた際、その職について楽しげに語られたことがあった。
物を修復する職業であるという。
それ以上の詳細は尋ねなかった。
しかし、そのときのお嬢様の表情は、今も記憶に残っている。
ゆえに、もしかすると――そう考えることはあった。
ただし、確かめるつもりはなかった。
お嬢様が語りたいと思われたときに、自らお話しされればそれでよい。
そう考えていた。
それでも、旦那様のことを思うと胸が痛む。
旦那様はお嬢様を深く大切にしておられる。
だからこそ、身分というものを重んじておられる。
相手がどのような人物なのか。
どのような家柄なのか。
お嬢様が幸せになれる相手なのか。
知れば知るほど、より一層ご心配されるであろうことは想像に難くない。
使用人には、それが分かっていた。
だからこそ、いずれにも偽りを持ちたくはなかった。
しかし今は、沈黙を守るほかなかった。
それはお嬢様との約束でもあった。
夕刻、屋敷の玄関に人の気配がした。
扉が開く。
「ただいま。」
イリスの声であった。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
使用人はいつものように頭を下げた。
顔を上げると、そこには朝と同じく赤と青の花を髪に飾ったイリスの姿があった。
しかし、その表情は朝よりも柔らかい。
そして、胸には紫の首飾りが輝いていた。
「今日はお楽しみになられたのですか。」
何気なく尋ねると、イリスは一瞬目を丸くした。
「……どうして分かるの?」
「お顔を拝見すれば分かります。」
イリスは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「そんなに分かりやすい?」
「多少は、でございます。」
「困ったわね。」
そう言いながらも、その笑みは消えなかった。
使用人はその表情を見つめる。
幼い頃の面影がそこにはあった。
嬉しいことを隠しきれない。
昔から変わらぬ気質である。
「お嬢様。」
「なに?」
「旦那様には、まだお話しされないのでしょうか。」
その言葉に、イリスの笑みがわずかに曇った。
「……まだ。」
「やはり、旦那様がご懸念されることがございますか。」
「うん。」
イリスは小さく頷いた。
「お父様が悪いわけではないの。私のことを心配してくださっているのも分かっているわ。」
わずかに視線を落とす。
「だからこそ、余計に言いづらいの。」
「それでも、お会いにはなられるのですね。」
イリスは顔を上げた。
今度は迷いがなかった。
「うん。」
その声は静かでありながら、確かな意志を帯びていた。
「会いたいから。」
使用人は何も言わなかった。
ただ、その言葉を胸中に留めた。
旦那様の心情も理解できる。
お嬢様の想いも理解できる。
いずれも誤りではない。
だからこそ、難しいのである。
「……いつか、お話しできる日が訪れるとよろしいですね。」
そう告げると、イリスはわずかに微笑んだ。
「うん。いつかね。」
そう言って階段を上っていく。
その足取りは軽やかであった。
使用人はその背中を見送る。
いつか訪れるその日まで、自らは沈黙を守るのだろう。
旦那様にも。
お嬢様にも。
ただ、その間に立ち続けるのみである。
それでも今は、それでよいと思えた。
少なくとも、お嬢様があのような表情で帰ってこられる場所があるのなら。
その時間を奪う理由は、どこにも存在しなかった
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は二人を見守る人達の想いを感じてほしいと思っています。




