第七章 傍らに咲く想い 第一部 父の懸念
朝の光が、屋敷の長い廊下を柔らかく照らしていた。窓の外では、庭師が伸びた枝を丁寧に剪定している。
いつもと変わらない朝だった。
しかし、娘の足音が玄関へ向かっていくのを耳にしたとき、イリスの父、レイモンは書類から顔を上げた。
またか。
ここ最近、イリスは外出する機会が増えている。 以前から散歩を好む娘ではあったが、これほど頻繁ではなかった。
ほとんど毎日のように、同じ時間帯に屋敷を出ていく。
レイモンは椅子から立ち上がり、廊下へ続く扉を開けた。
ちょうどイリスが玄関へ向かって歩いてくるところだった。
白い服の裾が静かに揺れている。その髪には、赤と青の花が飾られていた。
その気配に気づいたイリスが、足を止める。
「お父様、おはようございます。」
「ああ、おはよう。」
娘は微笑んでいた。いつもより、わずかに明るい表情だった。
レイモンは、その顔を見つめる。
何か良い出来事でもあったのだろうか。そう思わせるほど、イリスの表情には抑えきれない高揚があった。
「今日はどこへ行くんだ?」
一瞬、イリスの笑みが揺らいだ。しかしすぐに、いつもの穏やかな表情へと戻る。
「少し出かけてきます。」
「どこへ?」
イリスは答えかけて、口を閉じた。そして、父の顔を見る。
その視線に宿るものを、娘は理解していた。父が身分や立場を重んじていることを。
だからこそ、言えなかった。ラナンのことを。
それでも、会いたいという気持ちだけは隠しきれない
「……内緒です。」
そう言って、イリスは小さく微笑んだ。
レイモンはわずかに眉を寄せる。
「そうか。」
それ以上は追及しなかった。
イリスは玄関へ向かう。使用人が扉を開けると、朝の冷たい空気が屋敷の中へと流れ込んできた。
「いってらっしゃいませ、お嬢様。」
「行ってきます。」
イリスは振り返った。
「お父様も、お仕事頑張ってくださいね。」
「ああ。」
扉が静かに閉じる。
レイモンはその場に残ったまま、窓辺へと歩み寄った。
庭を抜けていく娘の姿が見える。
馬車も使わず、ひとりで歩いている。
赤と青の花が、歩みに合わせて小さく揺れていた。
イリスは何度か振り返りながら、やがて門の向こうへと消えていく。
レイモンは、しばらくその方向を見つめていた。
「レイモン様。」
背後から使用人の声がする。
「何だ。」
「お嬢様のことで、少し……。」
「何か知っているのか。」
使用人はすぐには答えず、わずかに視線を伏せた。
「お嬢様から、行き先については口外しないようにと申し付かっております。」
「……そうか。」
レイモンは、それ以上尋ねなかった。
娘が自分には告げず、使用人には話している。 その事実が、胸の奥に小さな棘のように残る。
イリスが自分を信頼していないわけではない。それは理解している。
それでも、気がかりだった。
最近の娘は、以前とはどこか違う。
出かける朝は、明らかに気分が高揚している。そして帰宅時には、さらに満ち足りた表情を見せる。
その理由を、レイモンだけが知らない。
机に戻っても、書類の文字は頭に入ってこなかった。娘の笑顔が、何度も脳裏に浮かぶ。
あのような表情を見たのは、いつ以来だろうか。
「……誰に会っているんだ。」
その呟きは、静かな部屋に溶けて消えた。
レイモンは窓の外へ視線を向ける。すでに娘の姿はない。
ただ朝の光だけが、いつもの道を淡々と照らしていた。
の物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は二人を見守る人達の想いを感じてほしいと思っています。




