第六章 二人の距離 第三部 大切な時間
昼を過ぎ、工房の中には柔らかな陽が差していた。
南の窓から伸びた光が、作業台の上に置かれた銀の懐中時計を照らしている。
ラナンは時計を手に取り、蓋に残った細かな傷を指でなぞった。
「それも、古いものですか。」
椅子に座っていたイリスが尋ねる。
「ああ。かなり使われている。」
銀の表面には、幾筋もの傷が残っていた。
深いものもあれば、光の加減でようやく見えるものもある。
「持ち主は、傷も直してほしいと言ったのですか。」
「そうだ。」
ラナンは時計を机へ置いた。
「けど、全部消すつもりはない。」
「どうしてですか。」
「その傷も、この時計が歩いてきた時間だからだ。」
イリスは黙って時計を見つめた。
「綺麗にするだけなら、傷は消せる。」
ラナンは細い工具を手に取った。
「でも、それじゃ持ち主が大切にしてきたものまで消える。」
「……素敵ですね。」
「そうか。」
「はい。」
イリスは立ち上がり、作業台のそばへ歩いてきた。
「物も、人も同じなのかもしれませんね。」
「人も?」
「生きていれば、傷が残ります。」
ラナンは手を止めた。
イリスは自分の指先を眺めながら続ける。
「その傷を全部なくしてしまったら、その人が歩いてきた道までなくなってしまう気がします。」
ラナンはしばらく黙っていた。
やがて、静かに頷く。
「だから、残していい傷もある。」
「はい。」
イリスが微笑んだ。
「ラナンらしい考え方です。」
「お前も同じだろ。」
「そうでしょうか。」
「ああ。」
ラナンは時計へ向き直った。
細い工具を内部へ差し込み、歯車の位置をわずかに調整する。
小さな音が一つ。
そして、止まっていた針が動き始めた。
カチ、カチ、と。
「動きましたね。」
「ああ。」
「傷は残っていますけれど。」
「それでいい。」
時計は、傷を抱えたまま時を刻んでいる。
イリスはその音に耳を澄ませた。
胸元では、昨日贈られたアメジストが静かに揺れている。
「ラナン。」
「なんだ。」
「これも、いつか傷がつくのでしょうか。」
ラナンは紫色の石へ目を向けた。
「たぶんな。」
「それでも、大切にしてくれますか。」
「傷がついたくらいで、大切じゃなくなるのか。」
イリスは目を細めた。
「……いいえ。」
「なら、心配するな。」
窓から入った風が、白い花を揺らした。
時計の音に重なるように、花びらが小さく擦れる。
工房には、穏やかな午後が流れていた。
第六章 終
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は二人が少しずつ距離を縮めていく章です。その歩みを感じてほしいと思っています。




