第六章 二人の距離 第一部 距離の縮め方
朝の光が南の窓から差し込み、工房の床に細長い帯を描いている。
ラナンは作業台に向かい、昨日購入した新しい道具を手に取っていた。
金属の表面に刃を滑らせるように当てる。
従来使用していたものよりも、より繊細な作業が可能であった。
「おはようございます、ラナンさん。」
背後から声がかかる。
ラナンが振り返ると、そこには昨日と変わらぬ穏やかな笑顔があった。
しかし胸元には、昨日まで存在しなかった紫の輝きが揺れている。
「おはよう、イリスさん。」
アメジストが朝の光を受け、小さく煌めいた。
「似合っていますか。」
「ああ。」
ラナンは目を細めて答える。
「よかった。」
イリスはそっと首飾りに触れた。
「昨日から、何度も見てしまうのです。」
「それほど気に入ったのか。」
「はい。」
イリスは嬉しそうに微笑んだ。
「大切な方からいただいたものですから。」
ラナンは返答しかけて、言葉を飲み込んだ。
炉の中で薪が爆ぜる。
その音だけが、しばし工房に響いていた。
「……そうか。」
ようやく絞り出した言葉に、イリスが柔らかく笑う。
「ラナンさんは、照れていらっしゃいますね。」
「照れてはいない。」
「表情に出ています。」
「出ていない。」
「出ています。」
ラナンは困ったように眉を寄せた。
イリスの笑い声が工房に響く。
その声を聞くうちに、ラナンの口元もわずかに緩んだ。
「……イリス。」
不意に、その名だけがこぼれ落ちる。
イリスの笑みが一瞬止まる。
ラナン自身も気づいたように瞬きをした。
「今……。」
「ああ。」
気まずげに視線を逸らす。
「呼び方が変わりましたね。」
「……嫌か。」
「いいえ。」
イリスは首を横に振った。
「嬉しく思います。」
白い花が窓辺で揺れている。
その向こうから、春の風が静かに流れ込んだ。
「では、私も。」
イリスはわずかに迷ったのち、柔らかく微笑んだ。
「ラナン。」
その声は、これまでよりも近く響いた。
ラナンは顔を上げる。
しかし、言葉は出てこない。
「……どうされました。」
「いや。」
ラナンは小さく息を吐いた。
「なんでもない。」
「ふふ。」
イリスが微笑む。
「少し、不思議な感覚ですね。」
「ああ。」
「これまでずっと、“さん”を付けていましたから。」
「それが習慣になっていた。」
「私も同じです。」
二人は視線を交わし、そして同時に小さく笑った。
長く存在していた小さな境界が、音もなくほどけていく。
工房には、炉の火が燃える音と、時計の針が進む音だけが残った。
ラナンは再び作業台へ向かう。
「そこに座っていろ。」
「はい。」
「今日は少し時間がかかる。」
「承知しました。」
イリスはいつもの椅子に腰を下ろした。
ラナンが道具を扱う様子を、静かに見つめる。
「ラナン。」
「何だ。」
「お呼びしただけです。」
「……そうか。」
二人の笑い声が重なる。
南の窓から差し込む光が、二人の間を穏やかに照らしていた。
昨日よりわずかに距離の縮まった、静かな時間がそこにあった。
この物語は、一人の修復師と、ものを大切にする女性の出会いから始まります。
直すのは、壊れた物だけではありません。
そこに残された想いや、過ごしてきた時間もまた、彼女達が繋いでいくものです。
この章は二人が少しずつ距離を縮めていく章です。その歩みを感じてほしいと思っています。




