辺境のお教え
私はアブの呪いを解呪した、はずである。
だから今頃は、私はアブをぎゅうぎゅう抱きしめて、アブには大好きな人を抱きしめてもオークにならない幸福を味合わせてあげられていたはずだった。
私が、アブに。
なのに私の腕の中は空っぽだ。なぜならば、再会したアブは私に置いて行かれたことを許してはくれず、私が話しかければ走って逃げてしまうのである。
王都の宿屋で再会した時、辺境に戻らなくても目の前にアブがいた嬉しさで駆け寄った私から、アブは逃げ出したのだ。
そして今。
私は宿屋の中庭にある大木の後ろに身を潜め、アブがシュクーと中庭を可愛らしく駆けまわり、時々彼が彼を見守る辺境伯に駆け寄って抱き上げられたりしている姿を眺めている。
この状況へのやるせない思いに、私はぎりいと奥歯を噛みしめた。
これもみんな、あのアブのお祖父さんのせいだ、と。
ジャバド・バフラームが、切れ者で計算高く策略家だと、カイヴァーンが評していたのを聞き逃してはいけなかったのだ。どうして私は彼を、信頼のおける懐の広い好々爺だと思い込んだのか。
気前よくドレスを買ってくれたからよ!!
彼はずっと仄暗い気持ちを抱いていたというのに。
アブが実の祖父の自分よりも、私やカイヴァーンになついているという構図に、きっとずっと苛立たしく羨ましく妬んでいたに違いない。
「だからこんな小細工をしたんだわ!!」
辺境伯は私に捨てられたと泣き止まないアブのため、護衛に一個兵団着けてアブと一緒に王都にやってきたのだ。
行方不明になった人を一緒に探しに行こう、とアブを唆して。
そもそも私をカイヴァーンが指定した日と場所に誘導したのがジャバド様で、探すどころか私の居場所など最初から分かっていたくせに!!
「こんのくそジジイめ」
「だから僕は止めたのに」
真後ろから聞こえた声に勢いよく振り向けば、すまし顔のバイラム君だ。
私はこの小さな薄情者、私がアブの好感度ランキングから落ちた途端に私を口説かなくなった彼に対し、ぎゅっと顔をしかめて見せた。
「あのジジイの思惑をあなたは知っていたのね」
バイラムは子供のくせに「思わず相好が崩れた」と大人の男性がするみたいに顔を歪めてくれた後に、やっぱり大人みたいな口をきいた。
「子供は大人の言葉が理解できないって大人は思い込んでますからね」
「……そうね。私もそれで父には何度か悔しい思いをさせられたわね。それで、大人よりも賢いバイラム様。どうすれば私が再びアブを抱きしめられるかご教授いただけるかしら?」
「抱きしめるだけでいいのですか? 許してもらえなくてもいいの?」
私はアブへと視線を戻す。
ジャバドに頭をぐりぐり撫でられているアブは、ジャバドの力強い手の力に翻弄されて体ごとぐりぐり揺れているが、それもまた楽しいと笑い声をあげている。
もちろん、ジャバドの強面の顔がオークになどなってはいない。幸せでぐちゃぐちゃに緩んだオークよりも間抜け顔になってはいるけれど。
僕を大好きなのにこの子はオークにならないの!
あの日のアブの言葉が脳裏で響き、私は思わず滲んだ涙を指先で拭う。
「いいのよ。私を許さなくてもいいの。許さなくても私はアブが好きなままなんだから、もうあの子は我慢しなくていいの。嫌だったら嫌だって言っていいの」
「いいのですか? そんなにも悔しそうなのに?」
「私がアブを抱きしめられないのにアブを抱きしめられる人を見て、悔しく思わないわけないでしょう」
「ふふ。では奪ってみては? 我が辺境領は愛は待つものではなく奪うものだと皆言ってます。あなたもなりふり構わず愛を奪ってはいかがですか?」
「はうっ」
私から言葉を奪った少年は、言いたいことは言ったという風に大木の影から出て行った。アブはバイラムを見ればジャバドの膝から飛び降り、それで、バイラムは彼に駆け寄ってきたアブを抱きしめ、持ち上げた。
まるでトロフィーみたいにして。
私? 私は大木から飛び出して――。
「ほかーく!」
「カイヴァ――様!!」
「きゃあああああああ」
……一歩どころか、一呼吸遅かった。
私と同じようにアブに無視されアブに逃げられていたもう一人が、私へのバイラムのアドバイスそのままに、バイラムごとアブを抱き上げて走り去っていったのだ。――どこへ? 私を置いていくおつもり?
「待ちなさいよ!!」
私も急いで大木から飛び出した――けれど。
「お兄ちゃ、放して。お兄ちゃん、きらい。だいきらい。放して、放してー」
カイヴァーンは数メートル先で立ち止まるしかなかった。
彼はのろのろと地面に膝をつくと、バイラムとアブを地面に降ろし――でも、立ち膝状態の彼は一度手放したアブを再び抱きしめなおした。
アブはアブでカイヴァーンの腕から逃れようと暴れ、小さな手でぽかぽかとカイヴァーンを叩く。
「おにいちゃ、きらい。おにいちゃ、きらい、きらい、きらいー」
「うん、うん。ごめん。ごめんな」
「おにいちゃ、きら、きら、うああああああああああん」
「うん。愛しているよ、アブ。愛している。ごめんな。愛している」
「うああああああああん」
アブはカイヴァーンにしがみ付き、カイヴァーンはさらにアブを抱きしめる。
だから私も、――アブを抱きしめるカイヴァーンごとアブを抱きしめた。
「ぎゅりぎらい。ぎゅりぎらい。ぎゅりもー。うああああああん」
「ごめんね。アブ。愛してる。私はアブを愛している。許さなくても私はアブが大好きだからああああああ」
はたから見たら、きっとすごい図だったと思う。
美人で名高い私が、鼻水出して大泣きよ。
それも人前で。
それで、この間抜けな大泣き三人組みは、いえ、間抜けなのは私とカイヴァーンで幼児のアブは私達のせいで泣かされてただけなんだけど、アブが泣きつかれてそのまま眠るまで宿の中庭で抱き合ってしゃがみ込んでいたの。
アブが眠ったらそのまま宿の部屋に運んで、せまい寝台でアブを挟んで横になって一緒に眠った。途中で目が覚めても、もう眠れなくなっても、それでも私達はアブのそばから離れたくなくて寝台にじっと横になっていた。
「すごい顔になっているぞ」
「あなたこそ」
「君は気付いている? もう君の人生は終わりだってことに。男の寝台に入ってしまった淑女は、その男と結婚するか娼館に行くしかないんだぞ」
私は眠るアブの頭を撫でてから、その隣の男の頭を叩いた。ちょっと強めに叩いたのは、彼がバカなことを言ったせいでもあるけど、泣いて不細工になるどころか目元が赤いせいでいつもと違う魅力が出ていることが憎たらしくて。
彼は自分を叩いた私の手を掴んで、その手の平にちゅっと口づけた。
それから、私の手が癒しのようにして、私の手の平を自分の頬に押し付けたのだ。
「君は今日から俺の妻だ。死んだ男の、幽霊の妻だ。君は社交界に戻れやしない」
「またそれね。あんまりうじうじするなら、あなたとの結婚はキャンセルでいいわ。私はアブの家庭教師もできる乳母になって、そのままアブが大きくなるまで見守るわ。それできっとアブは、おばあちゃんになった私に隠居用の家と年金をくれると思うの。ね、あなたと結婚しなくても私は別に終わりじゃないわ」
「むかつく女。俺の手で人生を終わりにしてやりたくなった」
「では?」
「――この状態じゃ格好付かない。ドレスを贈るからそれを着た君に跪かせてくれ。指輪の石は希望があるか? 俺の目の色は青だが、俺は宝石はサファイヤよりもルビーが好きだ。それでいいか?」
「私はルビーもサファイヤも好きじゃないの。無色透明のダイヤモンドにして!」
「――本気で幽霊の妻になるぞ。俺を殺す気かよ」
カイヴァーンは口をゆがめて憎まれ口を叩いたが、私は彼にはできる限りの微笑みを作って返した。
だって、きっとカイヴァーンはガラス玉でもいいっていう答えは嫌いな人だ。
弟達を救うために何年もかけてもやり遂げたこの人は、元王子だけあってプライドも高く自己評価も高い。ガラス玉でいいなんて返答は、彼がその程度の男だと決めつけているも同じ。
それに、これから私達が住まうバフラーム領は、愛は奪うものらしいし。
ダイヤを私に贈れなくとも、私を奪って花嫁にしてしまえばいいのよ、カイ。
「私を手に入れたいなら頑張って――って、どうしてそっぽ向いてしまうの。ちょっと、カイヴァーン!!」




