恋愛指南書など読んだことない女
「このバカ!!このバカ!!」
「うわっ。痛い、痛いって」
私は宿屋の一室にて、思いっきり迷子のお尻を叩いていた。
髪も顔も洗えば私は老婆から私自身に、ごろつきはカイヴァーンに戻った。
王都潜伏に関して、辺境伯様とちゃんと報連相はしていたなんて。
それで私の旅程とか王都に入ったらまず行く場所とか、変装の仕方まで添えた細かい指示をジャバド様はしてくださったのね。カイヴァーンと会えるように。
涙が出るのは、手の平が痛いからよ。
「心配させて! この大バカ者!!」
「ごめん。悪かった。だから、泣くな」
私はカイヴァーンに抱えられた。
ベッドにうつぶせにしてお尻を叩いていたはずなのに、動くと決めたら本当に素早い。私は彼の膝の上に乗せられて、彼の胸にしがみ付いているだなんて。
「俺のために泣くな」
「あなたがバカすぎるから泣くのよ!」
「俺はお前に何も与えられない幽霊だ。これで終いの方がいいんだよ」
「どうしてわからないの? 私は何度も言いました。貴方がいなければ、私もアブも死んじゃうの。あなたしか私とアブを幸せにできません」
「俺も何度も言いました。俺は君にいい暮らしをさせてやれません。今の俺はドレス一枚だって君に買ってやれないんだよ?」
「ドレスなんか辺境伯様に買ってもらうからいいのよ!!」
「ちょっと待て。それはそれでむかつくぞ」
「じゃ、じゃあ。二十五歳になれば遺産を自由にできるから、自分で買うわよ!」
「――貴方がいればドレスなんていらないわって、模範解答あるの知らない?」
「私は嘘吐きになりたくないもの。ドレスも、記念日のごちそうも贈り物も、いらないなんて、ぜっっっ対に言いません」
「ハハハ。まったく君は。で、グリはどんな生活を望むんだ? ドレスに宝石を活用できる、夜会に茶会に園遊会ありきの生活か?」
「――ほんとうにバカ。だからあなたは迷子になるんだわ」
「ああ、迷子だな俺は。俺が戻れるように教えてくれ。君は何を望む?」
堅いからこそ安心できるカイヴァーンの温かな腕に包まれていることで、実はこの場所にいられたら何もいらない気もしていた。けれど、商売人のお父様だったら、要求できるときはするものだと言うはずだ。
「貴方がいてアブがいて、シュクーもいて、そして私と私似の可愛い娘が、何の不自由もなく暮らせる世界だわ」
「お前、今度俺が男を喜ばす模範解答集でも作ろうか? ていうか、頼むからきまりきった解答をして俺というくだらない男を喜ばしてくれよ」
「あら、やっぱり私が妻になったら嬉しいんじゃないの」
「ああ。嬉しいよ。だが、何も与えられない男のせいで不幸せになっていくお前を、俺は見たくないんだよ」
「でも、不幸になるにしても、あなたじゃないと最初の幸せさえないのよ」
カイヴァーンの腕は万力みたいになってしまった。
私はぎゅうと抱きしめられ、私の頭の上には私を押さえつけるようにカイヴァーンの顎が乗っている。
だから私も仕返しにカイヴァーンの背中に腕を回してぎゅっとしがみ付いた。
「――貴族でいられないぞ」
「私は山暮らしも素敵ねって何度も言ってる」
「だったな。今度山に行って本当の山小屋で一晩明かそう。それで俺との未来を選ぶか決めようか」
「そうね。じゃ、急いで準備をして。バフラームに帰るわよ。アブがあなたの帰還を待っているわ。今なら暗くなる前に最初の宿場に着けるはずだわ」
「待って。俺がどうして王都に来ているのかわかっている?」
「――ああ思い出した」
「よかったよ」
私はカイヴァーンの戒めから逃れると、カイヴァーンを突き飛ばしてベッドの上に仰向けにした。
「なに?」
「もう一度お尻を叩く。さあ、もう一度うつぶせになって!」
「な、なんで」
「だって相談もなく勝手にタルマドを殺すから、アブの呪いを解いてあげられなかったじゃないの!!」
「ま、待って。君を呼んだのはそのためなんだ!!」
「呼んだ? 私は処刑される予定のあなたを逃がすために王都に戻ってきましたのよ? そういえば牢屋の中どころか変装してふらふらしていらっしゃったわね。まさか、私を呼ぶ目的で、処刑だなんて恐ろしい噂を流したの? あの恐ろしい噂はあなたがおつくりになったの?」
カイヴァーンは呆気にとられた顔になり、ゆっくりと首を横に振った。
それから完全に動きを止めた。
「カイ? どうなさったの?」
「俺を逃すため?」
「そうよ。牢屋番だろうが野次馬だろうが、邪魔をするなら私の力で廃人にしてやるわ。あなたを逃がすためには魔女の誹りくらいいくらでも受けるつもりで来たのよ。そのぐらいの覚悟でした。それぐらい」
「泣くな! 悪かった」
私は手を引っ張られてカイヴァーンの腕の中という、再びカイヴァーンに抱かれた格好となった。ただし今度は、ベッドに転がっているという煽情的な情景だ。
それでも嫌らしいと感じるどころか、アブに添い寝している感じ。
どうしてこんなに彼に触れていると安心できるのかしら。
「も、もう。あんな恐ろしい噂を流して私を呼ぶのはやめて。私の自主的な行動にしないと辺境伯に迷惑がかかると考えてのことでしょうけど、辛いわ」
「泣くな。――それで言い訳を言うのを許してくれるなら聞いてくれ。俺はジャバドにちゃんと君に伝えるように手紙を送ってた。俺が処刑される前日には君を王都に寄こしてくれってね。俺が処刑される前夜こそ、アブの呪いを解く最初で最後のチャンスだからってね」
「嘘。だって」
「ジャバドは君になんて伝えた?」
「何も。でも私が出ていくことはわかっていたから、私が旅をしやすいように書付を沢山作っておいてくださったわ。だからあなたに再会できた」
「それを見せてくれって、乱暴」
私に突き飛ばされたカイヴァーンがぼやく。けれど私は書付をすぐに渡したいと焦っているんだからいいじゃない。私は急いでベッドから降りると、辺境伯が作ってくれた旅用鞄から、辺境伯が書き記してくれた旅用の資料を引っ張り出した。それでそれを持ってベッドに飛び込む。
「お帰り」
カイヴァーンはベッドに転がった私を当たり前のように引き寄せて抱きしめたが、私が持ってきた紙類を奪うことも忘れていない。そしてその書付にしっかり目を通した彼は、あちゃあ、と言ってその紙束を目元に押し付ける。
涙を隠すハンカチみたいにして。
「カイ?」
「あのくそジジイ。あの強面のご面相くせして、なにを恋の妖精気取ってやがる」
「カイ?」
「ああちくしょう。俺の要請など何も知らないグリが、処刑される俺を助けるためだけに、女の身で馬をかっ飛ばしてやってきた。ああ、ぐっときたよ。だが言わせてくれ」
カイヴァーンは紙束を掘り投げる。
「こいつがいい女だって、そんな危険を乗り越えさせずとも俺はわかっているんだ!!」
「え」
ばらばらと落ちていく紙の中、彼は私に覆いかぶさり――キスをして、きた。
凄い、すごい、キス、を。
彼が私から顔を上げた後、私は彼に懇願していた。
恋愛指南書はどこに売っているの? と。
私、情報不足過ぎましたわ。




