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第十日「昼の待ち合わせ」

 朝になっても、軒下に掛けた布の端は湿っていた。


 西野雄太はそれを裏返し、日の当たる方へずらした。昨日、長い耳の生き物を拭いた布だった。毛が数本ついている。指で取ろうとしたが、一本だけ織り目に入り込んでいて、つまむたびに布まで持ち上がった。


「あとで払えば取れますよ」


 戸口から錦戸咲良が言った。もう仕事着を着て、道具袋を肩に掛けている。


「乾いてから?」

「はい」

「では、任せます」


 西野が手を離すと、風が布を膨らませた。


 空には薄い雲が残っていたが、雨の気配はなかった。向かいの屋根から、ときどき雫が落ちる。その上に長い耳がないか見てみたものの、瓦の色がまだらに違っているだけだった。


「今日は来ませんね」

「まだ朝ですから」


 錦戸も屋根を見上げた。


「名前、決まらないままですね」

「来た時に顔を見て考えましょう。僕らだけで決めるのも、何となく」

「本人にも聞くんですか?」

「一応は」


 錦戸は笑ってから、道具袋の紐を肩へ掛け直した。


「それでは、行ってきます」

「あ、錦戸さん」


 彼女が振り返る。


「昼はどうしてるんですか」


 すぐに返事がなかったので、西野は付け足した。


「仕事場で食べるのかと思って」

「日によります。買いに出ることもありますよ」

「今日は?」

「まだ決めていません」


 西野は家の中を見た。朝食に切ったパンは、もう二人で食べ終えている。昼には自分も何か買いに出るつもりだった。


「じゃあ、一緒に食べませんか。そっちまで行きます」


 錦戸が道具袋から手を離した。


「来てくれるんですか?」

「門のところまでなら分かります」

「お昼の鐘が鳴る頃に来てください。少し待ってもらうかもしれませんけど」

「その辺を見てますよ」

「見に行く時は、門の人に行き先を言ってくださいね」

「そんな遠くまでは行きません」


 彼女は頷き、通りへ出た。


 途中で一度こちらを振り返ったので、西野は手を上げた。錦戸も小さく手を振り、それから水溜まりを避けて角を曲がった。


 午前中、西野は食器を洗い、床を掃いた。


 椅子の下には、生き物の毛が少し落ちていた。昨日はずいぶん長くそこに寝ていたのだから、当然ではある。箒の先で集めると、灰色がかった小さな塊になった。


 窓を開けても、今日は何も入ってこなかった。


 外からは、車輪が石畳を転がる音が聞こえた。水売りらしい呼び声が通りを進み、どこかで戸が勢いよく閉まった。


 片づけを終えた西野は、椅子へ腰を下ろした。


 まだ昼には早かった。


 壁に掛けた上着を取り、着てみる。袖口は手首のところで止まった。窓へ近づくと、外の光の強さがよく分かった。朝の雲はほとんどなくなっている。


 西野は戸締まりをして、家を出た。


 通りの日向は乾いていたが、建物の陰にはまだ水が残っていた。店先で水を掃き出している男を避け、道の反対側へ渡る。積んだ籠のそばを通ると、青い野菜の匂いがした。


 急ぐ必要はなかった。


 それでも仕事場の門が見えた時、まだ鐘は鳴っていなかった。


 門の横には、背もたれのない椅子が一つ置かれていた。座っていた年配の男が、西野を見て顔を上げる。


「誰かに用かね」

「錦戸さんを待ってもいいですか。昼に約束していて」

「ああ、聞いているよ。中に入って待つかい」

「ここで大丈夫です」


 門の内側には広い庭があった。奥に屋根のある作業場があり、人が木箱を運んでいる。雨を避けるために移していたものを、元へ戻しているらしかった。


 庭の端で、一枚の大きな板が宙に浮いていた。


 その下を男が二人、長い台を持って歩いている。板は二人の頭より少し高いところで水平に止まり、端から水滴を落としていた。


 板の向こうに、錦戸がいた。


 片手を上げ、もう片方の手で足元を指している。何を言っているかまでは聞こえなかったが、男たちは台を少し右へ動かした。


 錦戸の手が下がる。


 板もゆっくり降りて、台の上に載った。


 西野は門柱にもたれかけていた体を起こした。錦戸がこちらに気づいたのだ。


 彼女はすぐに歩き出しかけ、作業場の方から呼ばれて足を止めた。相手の話を聞き、板の端を指差して何か答える。それからようやく門へ来た。


「早かったですね」

「家にいても、することが終わったので」

「もう少しだけ待ってください」

「今の板、全部持ち上げてたんですか?」

「はい。下の台を取り替えたかったので」


 西野が庭を見ると、男の一人が古い台を抱えていた。片方の脚が折れている。


「なるほど」

「あと、道具をしまってきます」


 錦戸は一度戻った。歩く速さが、先ほど庭にいた時より少し速かった。


 門の男が椅子に座ったまま言った。


「朝から、昼には連れが来ると言っていたよ」

「そうですか」

「鐘が鳴ってなくても通してくれって」


 西野は庭の奥を見た。


 錦戸が棚へ道具を置いている。こちらから見えることには気づいていないらしく、手を拭いた布を一度畳み、それを開いて指先をもう一度拭いていた。


 戻ってきた時、ちょうど鐘が鳴り始めた。


「お待たせしました」

「今、昼になったところですよ」


 二人で門を出ると、錦戸は西野の左側へ並んだ。


「何を食べたいですか?」

「近くに何があります?」

「パンに肉や豆を挟んでくれる店があります。あとは、汁物のお店が少し先に」

「パンの方にしましょうか」

「はい。こちらです」


 店は仕事場から二つ目の角を曲がったところにあった。


 丸い窓が開いていて、その下に焼いたパンが並んでいる。奥では女が鍋をかき混ぜていた。香ばしい匂いと、煮た肉の匂いが一緒に流れてきた。


 錦戸は窓から中を覗いた。


「肉のものを一つお願いします」

「僕も同じので」


 女は丸いパンを二つ取り、横から切り込みを入れた。そこへ刻んだ葉物を詰め、鍋の肉を汁気を切って載せる。


 窓の端には、小さな壺が置かれていた。


「それは?」

「辛いの。つけるなら少しにしな」


 西野は壺の中を見た。赤茶色の練り物に、細かい種のようなものが混じっている。


 匙の先ですくい、肉の上へ載せた。


「それくらいでいいと思います」


 錦戸が言ったので、さらに足そうとした手を止めた。


「結構辛いんですか」

「私は、初めて食べた時に水を買いました」

「先に聞けばよかったですね」


 西野は匙を戻した。


 店には座る場所がなかったので、二人は少し先の広場へ行った。木の下に長椅子があったが、座面がまだ濡れている。日向の席を見つけ、そこに並んで座った。


 錦戸が包みを開く。


 西野もパンを持ち上げ、端から一口食べた。


 肉は柔らかかった。葉物の歯触りが残っていて、パンには鍋の汁が染みている。


「おいしいですね」


 そう言ってから、辛さが来た。


 舌の奥が熱くなり、息を吸うと余計に広がった。西野は口を閉じ、しばらく黙って噛んだ。


 錦戸がこちらを見ている。


「辛いですか?」

「おいしいです」

「それは分かりました」


 彼女は笑いをこらえながら、自分のパンを包み直した。


「水を買ってきます」

「僕が行きますよ。どこですか」

「あそこの、桶が並んでいるところです」


 西野は立ち上がり、広場の端へ向かった。


 戻った時には、錦戸が膝の上に二人分のパンを載せていた。西野のものは、具がこぼれないよう包みの端を折ってある。


 水の器を一つ渡すと、彼女は代わりにパンを返した。


「落ち着きました?」

「まだ辛いです」

「次は半分くらいですね」

「次は錦戸さんに任せます」


 水を飲むと、ようやく別のことを考えられた。


 広場には、同じように昼食を取る人が何人もいた。向かいでは二人の男が一枚の紙を覗き込みながら食べている。小さな子供が石の隙間を踏まないように歩き、連れの女に呼び戻されていた。


「さっきの、よく頼まれるんですか」


 西野が尋ねると、錦戸はパンを飲み込んでから答えた。


「板を持つ仕事ですか?」

「はい」

「時々です。でも、持ち上げる前に呼んでほしいんです。今日は台が折れてから呼ばれたので」

「間に合ったんですね」

「片側は、箱で支えてありました」


 彼女は少し眉を寄せた。


「その箱も、中身が入ったままで」

「取り出せなくなったんですか」

「はい。必要な道具が、一番下に」


 西野は笑った。


「それで錦戸さんが全部持った」

「台を先に直した方が早いでしょう?」


 錦戸も笑い、パンの端を口へ運んだ。


 食べ終わる頃には、広場の人が減り始めていた。


 錦戸は空の包みを畳んだが、すぐには立たなかった。西野が水を飲み終えるのを待ち、器を受け取ろうとする。


「返してきますよ」

「私もそろそろ戻るので、一緒に」


 二人で器を返し、来た道を歩いた。


 店の丸い窓では、まだパンを売っていた。西野が壺へ目を向けると、錦戸が気づいて笑った。


「もう覚えましたね」

「あの壺は忘れません」


 仕事場の門が近づいた。


 錦戸の歩く速さが少し落ちたので、西野も合わせた。


「午後も、ああいう仕事ですか」

「今日は中で確認するものが残っています。昨日分けた道具を」

「では、板はもう持たなくていい」

「呼ばれなければ」


 門の前で立ち止まる。


「帰りに何か買っておきましょうか」

「家にある野菜で、夕食は作れますよ」

「そうじゃなくて、錦戸さんが帰る時までに、僕が買っておくものです」


 錦戸は一度瞬きをしてから、考えた。


「では、卵を。四つくらい」

「分かりました」

「坂の下のお店なら、籠に入っていると思います」

「四つですね」


 彼女は頷いた。


 西野が帰ろうとすると、錦戸が呼び止めた。


「今日、来てもらえてよかったです」

「また来ますよ」


 そう答えると、彼女の顔がほころんだ。


「では、また」


 西野は手を上げ、門から離れた。


 坂の下の店で卵を四つ買った。店の男が藁を敷いた小さな籠へ入れてくれたので、揺らさないように持って帰った。


 家に着くと、軒下の布は乾いていた。


 外して軽く払うと、朝は取れなかった毛が風に飛んだ。西野は布を畳み、窓のそばに置いた。


 長い耳の生き物は、夕方まで来なかった。


 錦戸が帰ってきた時、西野は食卓で卵を一つ持ち上げていた。


「ただいま帰りました」

「おかえりなさい。卵、これで合ってます?」

「はい。それです」


 錦戸は道具袋を下ろし、籠を覗いた。


「大きいのを選んでくれたんですね」

「店の人が選びました」

「西野さんではなく?」

「四つくださいと言っただけです」


 彼女は笑って手を洗いに行った。


 戻ってきた錦戸に、西野は卵を渡した。


「どうやって食べますか」

「野菜と一緒に焼こうと思っていました」

「では、切る方をやります」


 錦戸が鍋を用意している間に、西野は野菜を洗った。食卓へ運び、包丁を取る。


 窓の外で、小さな足音がした。


 二人とも顔を上げたが、向かいの屋根を鳥が歩いているだけだった。


「今日は来ませんでしたね」

「そうですね」


 錦戸は窓を見たまま答え、それから西野の手元へ目を戻した。


「それ、もう少し細く切れますか」

「これくらい?」

「はい。そのくらい」


 切った野菜を鍋へ入れると、油が音を立てた。


 錦戸が卵を割り、西野が皿を出した。開いた窓から風が入り、昼食の匂いが残っていた上着の裾を揺らした。


「明日は、辛いものはいりませんね」


 西野が言うと、錦戸は卵を混ぜながら振り返った。


「明日も、一緒に食べますか?」

「そのつもりで言いました」


「では、お昼の鐘に」


 錦戸はそう言って、溶いた卵を鍋へ流した。

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