第九日「雨の置き場所」
朝、西野雄太が目を覚ますと、窓の外で雨が降っていた。
屋根を細かく叩く音が途切れず、時折、まとまった水が軒から落ちる。部屋はまだ薄暗く、壁に掛けた二着の上着も、昨夜と同じ場所にぼんやり浮かんでいた。
西野は寝台から起き、新しい上着の左袖を確かめた。
縫い目は緩んでいない。隣の古い上着には、内側の裾近くに糸が浮いているところがあった。昨日、錦戸咲良に言ったのはそこだった。
上着を持って食卓へ行くと、錦戸は既に湯を沸かしていた。
彼女の椅子の背には、濃い色の仕事着が掛けられている。袖口でも裾でもなく、脇についた大きな物入れが裏返され、白い布地が出ていた。
「見つかったんですか」
「一つくらいはあると言われたので」
錦戸は物入れの底を指で広げた。縫い糸が二目ほど切れ、指先が入るくらいの穴ができている。
「これ、昨日できたものじゃないでしょう」
「前から少し開いていました」
「物が落ちませんでしたか?」
「細いものは、内側へ入れていたので」
「じゃあ、使い分けてたんですね」
「ここには大きなものだけです」
錦戸は平然と言ったが、西野が穴へ指を入れてみると、思ったより深くまで通った。
「一つくらいどころじゃないですよ」
「一つですよ。穴は」
「大きさの話です」
錦戸は笑って、湯の沸いた鍋を火から外した。
「朝を食べてから直しましょう。雨なら、今日は少し遅く出ても大丈夫です」
「仕事はあるんですか?」
「外の作業はありません。屋根のあるところで、道具を分けます」
西野は窓を見た。雨の向こうに、隣の屋根が霞んでいる。通りにはまだ人影が少なく、軒下を走る水だけが石の隙間を流れていた。
朝食を終えると、二人は昨日と同じ側へ並んで座った。
錦戸は古い上着を自分の前に置き、西野には仕事着を渡した。
「反対じゃないですか?」
「西野さんが、私の服も見てと言ったんでしょう」
「見つけたら一緒に直そうという意味です」
「はい。ですから、私は西野さんのを直します」
西野は裏返された物入れを持ち上げた。切れた糸の周りは擦れて薄くなっている。穴だけを閉じても、すぐ隣が開きそうだった。
「当て布が要りますね」
「小さい布なら箱にあります」
錦戸が立とうとしたので、西野は先に窓際の箱を取った。中には針や糸のほか、畳まれた布の切れ端が何枚か入っていた。灰色、薄茶色、色の抜けた青。服を直した時の残りらしく、どれも形が違う。
「どれを使いますか?」
「内側なので、どれでも」
「では、これで」
西野は濃い青の布を選んだ。仕事着より少し明るいが、裏側なら目立たない。穴より一回り大きく折り、四隅を留める。
「そこから縫うんですか?」
錦戸が古い上着から目を上げた。
「違いますか」
「違いません。ただ、昨日より慣れています」
「三か所縫っただけですよ」
「その三か所で覚えたんですね」
西野は針を入れた。昨日は布を突き抜けた針先を探すのに時間がかかったが、今日は指の位置でおおよそ分かった。表へ糸を出さないよう、物入れの布だけを浅くすくう。
隣では、錦戸が古い上着のほつれを閉じていた。彼女の指は西野より速い。それでも昨日と同じように先へ行きすぎず、時々こちらを見ている。
「見られるとやりにくいですよ」
「針を刺さないか見ています」
「錦戸さんが見ていたら、刺さらなくなるんですか?」
「刺さりそうなら言えます」
「言われて止められるものですかね」
「では、試しますか?」
「刺しませんよ」
錦戸は口元を緩めて、また自分の手元へ戻った。
雨が強くなり、屋根の音が一段大きくなった。
西野が三辺目を縫っていると、窓の上で小さな音がした。屋根を打つ雨とは違う。何かが木へ爪を立て、滑ったような音だった。
二人が同時に窓を見る。
細長い耳が、窓枠の外を横切った。
「あれ、昨日の」
西野が立ち上がると、錦戸も針を布へ刺して手を止めた。
窓を少し開けると、雨が斜めに吹き込んだ。そのすぐ下の狭い出っ張りに、長い耳を持つ生き物が伏せている。毛は水を吸って体へ張りつき、晴れた日に見た時より一回り小さく見えた。
「昨日のものかは分かりませんよ」
「同じことを言いますね」
「同じ顔に見えるので」
「錦戸さんにも同じ顔に見えるんですか?」
「似ています」
生き物は二人を見上げたが、逃げなかった。耳の先から水が落ち、窓枠に小さな染みを作っている。
「中へ入れますか?」
西野が尋ねると、錦戸はすぐには答えなかった。生き物の足元を見てから、部屋の床を見る。
「そのままでは、床が濡れますね」
「拭けばいいでしょう」
「では、布を持ってきます」
錦戸は奥から古い布を一枚取ってきて、窓の下へ広げた。西野が窓をもう少し開くと、生き物は一度後ろへ下がった。だが、強い雨が背へ当たると、身を低くして部屋へ飛び込んだ。
布の真ん中には降りず、西野の足元へ着地した。
「そっちなんですか」
濡れた足跡が三つ、床へ並ぶ。
生き物は西野の新しい上着の裾へ鼻を寄せた。昨日、路地で見たものと同じなら匂いを覚えているのかもしれない。西野が触れようとすると、長い耳だけを後ろへ倒した。
「嫌そうですね」
「まだ触らない方がいいです」
錦戸は生き物を直接持ち上げず、広げた布を少しずつ足元へ寄せた。生き物がその上へ乗ると、両端を折って水を吸わせる。
「随分慣れてませんか?」
「濡れたものを拭くのは同じですから」
「物みたいに言わないでください」
「では、西野さんが名前を決めてください」
「昨日は一緒に決めると言いましたよ」
「覚えています」
錦戸は生き物の背を布越しに押さえながら、西野を見上げた。雨の日に来たことから名前を考えようとしたが、雨に関する名をつければ、晴れた日に似合わなくなる気がした。
「乾いてからにしましょうか」
「見た目が変わりますからね」
「そういう意味じゃないですけど」
錦戸が笑った拍子に、生き物が布の隙間から顔を出した。先ほどまで細く見えていた頬の毛が少しずつ膨らんでいる。
二人は窓を閉め、縫い物へ戻った。
生き物は布の上へ座ったまま、時折体を震わせた。そのたびに細かな水が飛び、西野の椅子の脚や、錦戸の仕事着の裾へついた。
「せっかく直しているのに、また濡れますね」
西野が言うと、錦戸は仕事着を少し持ち上げた。
「洗えば乾きます」
「今日は乾かないでしょう」
「明日は晴れるかもしれません」
物入れの当て布を縫い終えると、西野は裏返して表から確かめた。穴は見えなくなっていたが、縫い目の一か所だけ青い糸が小さく出ている。
「ここ、見えてますね」
「これくらいなら大丈夫です」
「でも、僕が縫ったと分かりますよ」
「分かる方がいいです」
錦戸は古い上着を畳み、西野の前へ置いた。ほつれていたところは閉じられ、以前の糸と新しい糸の境目だけがわずかに色を変えている。
「こちらも、私が縫ったと分かります」
「お互いに隠すのが下手だったということですか」
「見つけるのが上手なんです」
錦戸は仕事着を受け取り、直した物入れへ手を入れた。底を押し、四隅を確かめる。最後に青い糸の見えているところを指でなぞった。
「これなら、細いものを入れても大丈夫ですね」
「今まで何を落としたんですか?」
「木札を一枚」
「落としてるじゃないですか」
「すぐ見つけました」
「直すのが遅いです」
西野が言うと、錦戸は少しだけ姿勢を正した。
「次は早く言います」
「僕にですか?」
「西野さんに」
「直せるとは限りませんよ」
「一緒なら直せます」
彼女はそう言って仕事着を着た。直した物入れへ木札を何枚か入れ、歩いても落ちないことを確かめる。出かける支度を終える頃には、雨は先ほどより弱くなっていた。
長い耳の生き物は、まだ窓辺の布にいた。
「これはどうします?」
「自分で出ていくと思います。窓を少しだけ開けておきます」
「また雨が入りますよ」
「下に布を置いておけば大丈夫です」
二人で窓を指二本分だけ開けた。生き物が通れるか心配だったが、錦戸によれば、頭が通れば体も通るらしい。
戸口で靴を履いた錦戸は、昨日と同じように一度振り返った。
「今日は袖ではなく、ここを見てください」
彼女は直した物入れを軽く叩いた。
「帰ってきたらですか?」
「はい。西野さんが直したので」
「一日くらいは持ちますよ」
「明日も持つと言ってください」
昨日、西野が言われた言葉だった。
「明日も持ちます」
錦戸は嬉しそうに頷いた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
彼女が出ていったあと、西野は針と糸を箱へ戻した。
窓辺を見ると、生き物はいつの間にか布から出て、椅子の下へ移っていた。乾き始めた毛は外側へ広がり、猫ほどだった体が少し大きく見える。
「名前、どうしますかね」
生き物は答えず、前足へ顎を乗せた。
昼を過ぎる頃には雨が止んだ。
雲の切れ間から光が差し、窓枠に溜まっていた水が細く光った。西野が窓を大きく開けると、生き物は椅子の下から出てきた。すぐには外へ行かず、部屋を一周し、壁に掛けた二着の上着の下で立ち止まる。
それから窓台へ飛び乗り、振り返った。
「また来たら、今度こそ決めますよ」
長い耳が一度動いた。
生き物は隣家の屋根へ飛び移り、濡れた瓦の上を慎重に歩いていった。煙突の向こうへ消えるまで、西野は窓辺に立っていた。
錦戸が帰ったのは、空にまだ薄い明るさが残っている頃だった。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい」
西野が食卓から立つと、錦戸は道具袋を外す前に物入れから木札を出した。三枚とも揃っている。
「落ちませんでした」
「一日持ちましたね」
「明日も持ちます」
錦戸は自分でそう言って、青い糸の見えるところを西野に向けた。
「緩んでませんね」
「はい。きれいなままです」
「表に糸が出てますけど」
「そこも含めてです」
西野が縫い目を指で押すと、その上へ錦戸の指が重なった。確かめる場所が同じだったらしい。どちらもすぐには手を引かず、錦戸が先に小さく笑った。
「上着の方も見ますか?」
「今日は着ていなかったでしょう」
「でも、錦戸さんが直したので」
二人は壁へ行き、古い上着を下ろした。
錦戸の縫った裾にも緩みはない。西野は仕事着の物入れと古い上着を並べ、それぞれに新しい糸が残っているのを見た。
窓辺の布はまだ湿っていた。
錦戸は何があったのか尋ねず、それを手に取って軒下へ掛けた。長い耳の生き物が帰ったと西野が話すと、残念そうにはせず、窓の外を一度見た。
「また来ますかね」
「二日どころか、三日続けて会いましたから」
「では、次は名前を決めましょう」
「一緒にですよ」
「はい。一緒に」
夕食の支度を始める前に、錦戸は針の箱を棚の奥ではなく、一番手前へ置き直した。
九日目、二人の直したものは、どちらも何一つ落とさなかった。




