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第八日「折った袖」

 朝、西野雄太は昨日買った青い皿を食卓へ置いた。


 白く色の抜けた部分を自分の側へ向け、その隣に錦戸咲良の薄茶色の皿を並べる。鍋から煮物を移すと、青い皿では具が外へ広がり、薄茶色の皿では中央へ重なった。


 錦戸がパンを持って部屋へ戻ってきた。


「もう使っているんですね」


「棚の一番上にあったので」


「昨日、西野さんが置いたんでしょう」


「使っていい場所ということですよね」


 錦戸は向かいに座り、自分の皿を少し手前へ寄せた。まだ何も食べていないのに、縁を指でなぞっている。


「気に入りましたか?」


「はい。昨日より、家のものに見えます」


「一晩で?」


「棚に入っていたからでしょうか」


 西野も青い皿を見た。店で手に取った時には、他の器の間に置かれた売り物だった。今は昨日まで使っていた皿や、縁の欠けた皿と同じ棚から出てきた。


「僕は最初から自分のものに見えてましたよ」


「選んだ時からですか?」


「錦戸さんが僕の前に置いた時から」


 錦戸は少し笑い、パンを小さくちぎった。


「それなら、私が決めたことになりますね」


「青い方がいいと言ったのは僕です」


「でも、二枚買うと決めたのは私です」


「では半分ずつで」


「何が半分なんですか?」


「皿を選んだ責任です」


「使いにくくても、半分しか文句を言えませんね」


 昨朝とは違い、西野は初めからパンを煮汁へ入れた。錦戸も同じようにしようとして、彼の皿を見てから手を止める。


「今日は先に食べるんじゃなかったんですか」


「もう少し汁が減ってからにします」


「僕に教えたやり方でしょう」


「教えたからといって、毎日同じにはしません」


 錦戸はそう言いながら、西野が入れたものより少し大きくパンをちぎった。煮汁を吸うと、端だけが浮いた。


 食事を終える頃、戸が二度鳴った。


 錦戸が開けると、昨日の服の店にいた若い男が立っていた。腕に布の包みを抱えている。昨日試したものと同じ形で、別の大きさの上着が届いたのだという。


「わざわざ知らせに来るんですか」


 男が帰ったあと、西野が尋ねた。


「近くへ来る用事があったそうです」


「僕が買うかも分からないのに」


「昨日、私が見ておいてほしいと頼みました」


「いつの間に」


「西野さんが着替えている間です」


 錦戸は重ねた皿を持ち上げた。


「今日も見に行きますか?」


「錦戸さんは仕事では?」


「午後からです。店まではすぐですから」


「一人でも行けますよ」


「知っています」


 錦戸は皿を洗うため流しへ向かったが、二歩で振り返った。


「でも、一緒に見たいです」


 西野は食卓に残っていたパン屑を指で集めた。


「では、皿を洗ったら行きましょう」


「はい」


 錦戸は満足したように頷いた。水を出す前から、昨日より少し楽しそうだった。


 服の店に着くと、届けられた上着は入口近くへ掛けられていた。


 色は濃い灰色で、光の当たるところだけわずかに青く見える。昨日の大きいものと同じ色だった。西野が広げると、肩幅は今の服とほとんど変わらず、身頃だけが少し広い。


「これならよさそうですね」


 錦戸は上着を受け取り、西野の背中へ合わせた。


「まだ着てませんよ」


「今日は腕を上げてとは言いません」


「覚えてたんですね」


「西野さんが笑ったので」


「錦戸さんも笑ってたでしょう」


「だから覚えています」


 店の奥で着替え、西野は鏡の前へ出た。


 肩は窮屈ではなかった。腕を前へ伸ばしても背中が引かれず、裾は腰より少し下まである。ただし袖は昨日と同じように長く、手の甲の半分を隠していた。


 錦戸は正面から見たあと、西野の周りを半分回った。


「後ろはちょうどいいです」


「袖だけですね」


「一度折れば、手が出ますよ」


 錦戸が右の袖を外側へ折る。西野は左を自分で折った。右は縁がまっすぐだったが、左は途中から幅が細くなっていた。


「同じようにしたつもりなんですが」


「こちらを少し広くしてください」


 錦戸は自分が折った袖を見せた。西野が直そうとすると、彼女は右袖を戻し、もう一度ゆっくり折った。


「そこまで揃える必要ありますか?」


「両方、西野さんの腕ですから」


「違う人の腕だったら困りますよ」


 錦戸が笑ったので、西野も鏡を見たまま笑った。


 袖を折った姿は、昨日まで着ていた服とは随分違って見えた。形が違うだけでなく、この町の通りでよく見かける幅と丈をしている。鏡の中だけを見れば、最初からこの服を持っていたようでもあった。


「似合いますか?」


「はい」


 錦戸はすぐに答えた。


「昨日は、着れば似合うようになると言ってましたね」


「まだ着たばかりですけど、もう似合っています」


「理屈が変わってませんか」


「見たので、分かりました」


 西野は袖を下ろし、もう一度腕を曲げた。折ったところは動かしても落ちてこない。


「これにします」


 代金は西野が払った。錦戸は店の人から細い紐を一本受け取り、上着の脇にある輪へ通している。


「それは何ですか?」


「風が強い日に留める紐です。この服にはついていなかったので、分けてもらいました」


「自分でできますよ」


「次からはお願いします」


 紐を結び終えた錦戸は、余った長さを指二本分だけ残して切ってもらった。


 西野は新しい上着を着たまま店を出た。今までの上着は畳んで包みに入れ、脇に抱えている。


 家までの道は昨日も通ったはずなのに、着ているものが変わると、すれ違う人の目が減ったように感じた。誰も西野を見ていないわけではない。ただ、一度見たあとに振り返る人がいなかった。


「昨日までの方が目立ってましたか?」


「少しだけ」


「少しですか」


「私は見慣れていたので」


 錦戸は西野の左袖へ目を落とした。歩いているうちに折り目の端が斜めになっている。


「止まってください」


 錦戸は袖を直し、左右の幅を見比べた。人が通るたびに西野の側へ寄るので、最後には肩が触れそうなほど近くなった。


「家で縫えば、落ちなくできますよ」


「折ったまま縫うんですか?」


「内側だけ留めます。ほどけば元にも戻せます」


「錦戸さんが仕事へ行く前にできますか」


「すぐに終わります」


「なら、右をお願いします。左は僕がやります」


「縫えるんですか?」


「針を通すくらいなら」


 錦戸は疑うように見たのではなく、嬉しそうに西野の顔を見上げた。


「では、並んでやりましょう」


 家へ戻ると、錦戸は窓際の箱から針と糸を出した。


 西野は上着を脱ぎ、椅子の背へ掛ける。錦戸が右袖を裏返したので、彼も左袖を同じように返した。表から見えない位置へ糸を通し、折り目を三か所だけ留めればいいらしい。


 二人は食卓の同じ側へ座った。


 錦戸は布を指先で平らにし、針を入れる場所を西野に示した。糸は上着に近い灰色で、縫い目は少しくらい不揃いでも外からは見えない。


「指に刺さないでくださいね」


「子どもじゃないですよ」


「私も時々刺します」


「では、錦戸さんも気をつけてください」


「はい」


 錦戸は一針進めるたびに、西野の手元を見た。西野が二つ目の縫い目を作る頃には、彼女の方はもう三か所を留め終えている。それでも糸を切らず、布の端を整えながら待っていた。


「先に終わっていいですよ」


「急ぐものではありませんから」


「仕事に遅れますよ」


「まだ大丈夫です」


 西野が針を引くと、糸の途中に小さな輪ができた。指で直そうとしても締まらない。


 錦戸が手を伸ばし、輪の内側へ針先を入れた。


「ここを押さえて、もう一度引いてください」


 西野が糸を引く間、錦戸は輪が消えるまで指を添えていた。


「取れましたね」


「はい。きれいです」


「錦戸さんの方がずっときれいでしょう」


「同じ上着の内側にありますから、外からは同じです」


 最後の糸を結び、西野は上着を表へ返した。左右の袖を並べると、折り目の幅はほとんど揃っていた。左だけ、よく見れば端がわずかに高い。


「やり直しますか?」


 錦戸が尋ねた。


「いえ。これで僕が縫った方が分かります」


「私も分かります」


「そんなに違います?」


「そうではなくて、見ていましたから」


 西野は上着を着直した。袖から両手が同じ長さだけ出ている。腕を上げても、折り目は崩れなかった。


 錦戸は正面から襟を整え、脇の紐を一度確かめた。


「帰ったら、もう一度見せてください」


「朝と変わりませんよ」


「一日着たら、どこか引かれるかもしれません」


「分かりました。待ってます」


 その言葉を聞くと、錦戸はすぐに仕事の支度を始めた。道具袋を腰へつけ、戸口で靴を履く。外へ出る前に振り返り、西野の姿をもう一度見た。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 戸が閉まってから、西野は古い上着を畳んだ。


 棚へしまおうとしたが、奥には入れず、新しい上着を掛ける場所の隣へ置いた。まだ着られなくなったわけではない。袖の細かな傷も、昨日洗ったばかりなので目立たなくなっている。


 午後、西野は新しい上着のまま近くへ買い物に出た。


 歩くうちに袖のことは気にならなくなった。脇の紐も結ばずに済んだ。店で野菜を受け取る時、初めて会う相手からこの町の者と同じように籠を渡された。帰り道で長い耳の生き物を一匹見かけたが、それは路地の奥へ入り、西野については来なかった。


 錦戸が戻った時、西野は夕食の野菜を切っていた。


「ただいま帰りました」


「おかえりなさい」


 錦戸は道具袋を外す前に食卓の横へ来た。


「腕を上げてください」


「本当に見るんですね」


「約束しましたから」


 西野が両腕を上げると、錦戸は袖の裏へ指を入れ、縫い目を一つずつ確かめた。右を見て、左を見る。西野が縫った方にも緩みはなかった。


「大丈夫です」


「一日持ちましたね」


「明日も持ちますよ」


「糸が切れたら、また一緒に縫いましょう」


「切れなくても、別のものを縫えばいいでしょう」


 錦戸は袖から手を離さず、西野を見た。


「何かありますか?」


「古い上着の内側が少しほつれてます」


「では、明日にでも」


「錦戸さんの服も見てください。探せば一つくらいあるでしょう」


 彼女はようやく手を離し、道具袋を椅子へ置いた。


「探しておきます」


「無理に破らないでくださいね」


「そんなことはしません」


 錦戸は笑いながら、切りかけの野菜を西野と分けた。包丁は一本しかなかったので、彼が切り、彼女が鍋へ入れる。新しい袖は食卓へ触れず、灰色の折り目も崩れなかった。


 夕食には、昨日の二枚の皿を使った。


 食べ終えたあと、西野が上着を脱いで壁へ掛けると、錦戸は古い上着をその隣へ掛け直した。二着の肩が触れないよう少し間を空け、それから新しい方の左袖を、右と同じ向きへ揃えた。


 八日目、西野の新しい袖には、二人分の縫い目が残った。

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