第七日「浅い皿」
朝の食卓で、西野雄太はパンの端を皿に押しつけていた。
皿の底に残った煮汁を拭おうとすると、パンが先に汁を吸って折れる。指で拾うには熱く、匙ですくうには薄すぎた。西野が皿を少し傾けると、向かいにいた錦戸咲良が自分の匙を止めた。
「もう少し、こちらへ寄せたらどうですか」
「皿ですか?」
「パンの方です。縁で押さえると取れますよ」
言われた通りにすると、柔らかくなったパンが匙に乗った。口へ運ぶ間に一滴落ちたが、食卓までは届かなかった。
「この皿、底が広いですね」
「煮たものを冷ますにはいいんですけど、最後が少し食べにくいんです」
「毎回こうなるんですか?」
「私はパンを小さくして、先に入れてしまいます」
錦戸の皿には、既に汁がほとんどなかった。
「先に教えてほしかったですね」
「西野さん、端からきれいに食べていたので。その食べ方が好きなのかと思って」
「苦労してたんですよ」
錦戸は笑い、まだ籠に残っていたパンを半分に割った。
「明日は最初から入れてみてください」
「今日はもういいです」
「では、これは私が」
彼女は割った片方を自分の皿へ置き、もう片方を西野の皿の脇に置いた。西野が見ると、何も言わずに口元だけで笑った。
結局、西野はそれも食べた。
食後、錦戸が皿を重ねた時、下の一枚がかすかに鳴った。持ち直した彼女の指の下に、欠けた縁が見えた。白い釉薬の内側から、土の色が小さく覗いている。
「それ、前からですか?」
「ええ。ここへ来た時から使っています」
「指、切りませんか」
「角は削ってありますよ」
錦戸は欠けたところを指でなぞった。それでも西野が見ているので、皿を渡してきた。確かに尖ってはいなかった。欠けた部分だけが滑らかな曲線になっている。
「随分使ってるんですね」
「使いやすい大きさなので」
西野は自分の皿と重ねてみた。錦戸のものは一回り小さく、底も少し深かった。
「僕の方を使えばいいのに」
「それでは、西野さんが小さい方になります」
「足りなければ足せばいいでしょう」
「それなら私も同じです」
そう言ってから、錦戸は二枚の皿を見比べた。
「今日、器を見に行きませんか。もう一枚あれば、盛りつけにも使えますし」
「仕事は?」
「今日はありません」
「それなら行きましょう。昨日、町の服の話もしてましたよね」
「そちらも見ますか?」
「見るだけでも」
「はい。両方、近くにあります」
錦戸は皿を受け取ると、先ほどまでより少し早く片づけ始めた。
通りへ出たのは、朝の涼しさがまだ石の上に残っている時間だった。
西野は昨日洗った上着を着ていた。乾いている時は気づかなかったが、腕を曲げると袖が以前より軽い。肩には粉も残っていない。錦戸は仕事着ではなく、裾の長い服に薄い上着を重ねていた。腰に道具の袋がないので、並んで歩く時の間隔がいつもより狭かった。
「そっちで合ってますか?」
分かれ道で西野が尋ねると、錦戸は右を示した。
「左からでも行けます。少し遠くなりますが」
「帰りに左から来ましょうか」
「そうしましょう。あちらには焼くものの店があります」
「何を焼くんですか?」
「今日は何でしょうね。甘いものの日もあります」
「帰り道は決まりですね」
錦戸は頷いて、そのまま右の道へ入った。
器を売る店は、通りへ張り出した屋根の下にあった。棚だけでなく、床へ敷いた厚い布の上にも皿や鉢が並んでいる。奥には紐を通した壺が吊られ、口の狭いもの同士が風に揺れて触れ合っていた。
西野は入口で一度足を止めた。
「こんなところに置いたら、蹴りませんか」
「足元を見て歩いてくださいね」
「錦戸さんもですよ」
「私は一度、袖を引っかけました」
「足元だけじゃ足りないじゃないですか」
彼女は笑って、上着の袖を片手で押さえた。
店の奥から出てきた女性が錦戸に挨拶をした。皿を探していると聞くと、手前の棚を指し、また奥へ戻っていく。西野たち以外にも客が二人いて、一人は鉢を裏返し、もう一人は壺の口へ蓋を何度も合わせていた。
西野は棚の中段から、青みのある皿を取った。
家で使っているものより浅く、縁がなだらかに立ち上がっている。底には濃い色が溜まっていたが、片側だけが薄く、そこに親指ほどの白い部分があった。
「これは色がついていないんですか」
錦戸が隣から覗いた。
「焼いた時に変わったんだと思います。こういうものもありますよ」
「使っているうちに剥げたみたいですね」
「嫌ですか?」
「いや。ここを手前にしたら、同じ向きに置けます」
西野が皿を回すと、錦戸も白い部分へ目を寄せた。
「私は、雲が残っているみたいに見えます」
「随分いい方に見ますね」
「西野さんが持っていると、余計にそう見えます」
「僕が何かしてますか?」
「光の方へ傾けていますから」
西野は皿を水平に戻した。濃い青が底へ沈み、白い部分だけが縁に残った。
錦戸はその隣にあった、薄茶色の皿を手に取った。こちらは少し深い。西野が見ていると、彼女は青い皿の下へ重ねた。縁は揃わなかったが、ぐらつきはしなかった。
「そちらも買うんですか?」
「どうしましょう。朝の煮物なら、こちらが食べやすそうです」
「でも、まだ使えるでしょう」
西野は言ってから、重ねられた二枚を見た。
「一枚あれば足りますよね」
錦戸はすぐには棚へ戻さなかった。青い皿を西野の方へ向け、薄茶色の皿を自分の前に置くように持ち直した。
「私はこれで食べたいです。西野さんは?」
「……青い方がいいですね」
「では、二枚にしましょう」
「置くところ、ありますか」
「あります。重ねれば、このくらいですから」
彼女が二枚の縁を指で挟んでみせたので、西野も厚さを確かめた。皿が増える分は、指一本にも満たなかった。
「じゃあ、それで」
店の女性は二枚の間に柔らかな紙を挟み、布で包んだ。錦戸が代金を出している間に、西野は包みを受け取った。
「持ってもらっていいんですか?」
「これくらいは」
「ありがとうございます。袖には気をつけてください」
「錦戸さんと一緒にしないでください」
彼女は声を立てて笑った。西野も笑いながら、床の鉢を避けて外へ出た。
服の店は、そこから家を三つ挟んだところにあった。
入口に掛けられた上着は、どれも西野の着ているものより身幅が広かった。袖の付け根も大きく、脇に細い紐がついているものがある。錦戸が一枚を広げ、西野の肩へ合わせた。
「少し大きいですね」
「小さいよりはいいでしょう」
「腕を上げてみてください」
「着てないんですけど」
「ああ、そうですね」
錦戸は上着を下ろし、笑いをこらえるように唇を結んだ。
店の人に断ってから、西野は今の上着を脱いだ。錦戸が皿の包みと一緒に受け取る。試しに袖を通すと、指の半分まで隠れた。
「仕事をするには邪魔ですね」
西野が言うと、錦戸は袖口を一度折った。
「歩くにも長いです。もう一つ小さいものがよさそうです」
隣にあったものでは肩が窮屈になった。鏡は壁に細長いものが一つあるだけで、全身を見るには後ろへ下がらなければならなかった。西野が一歩引くたび、錦戸も荷物を抱えたまま横へずれる。
「そこまで避けなくても見えますよ」
「後ろも見たいので」
「どうですか?」
「大きい方の色が好きです。でも、これは肩が引かれていますね」
結局、服は買わなかった。店の人が別の日なら違う大きさも出ると言い、錦戸は来た道を戻りかけた西野の袖へ軽く触れた。
「帰りは、こちらでしたよ」
「ああ、焼くもの」
「今日は匂いがします」
少し遠回りの道には、陽がよく当たっていた。
目当ての店では、平たい生地に刻んだ実を散らして焼いていた。甘い匂いの下に、熱くなった油の匂いがある。西野が店先から鉄板を見ていると、錦戸も並んで覗き込んだ。
「これ、食べたことありますか?」
「あります。端がぱりぱりしています」
「二つ?」
「お昼の前ですから、大きいものを一つにしませんか」
「半分ずつですね」
「はい」
焼き上がったものは、薄い木の板に載せて渡された。西野が空いた片手で受け取ろうとすると、錦戸が先に両手を出した。
「皿を持っていてください。これは私が」
「熱いですよ」
「下は大丈夫です」
通りの端へ寄り、少し冷めるのを待った。表面に塗られた蜜のようなものが、傾くたびに光った。
錦戸が二つに割ると、片方だけが随分大きくなった。
「そっちをどうぞ」
西野が大きい方を示すと、彼女は見比べてから、その端をもう少し折った。小さい方へ添えて西野に渡す。
「これで同じです」
「そこまで揃えなくても」
「でも、両方とも端があります」
食べてみると、確かに端の方が香ばしかった。中心は柔らかく、刻んだ実の間に少し塩気がある。
錦戸の指に欠片が残った。彼女はそれを落とさないよう口へ運び、西野の方を見た。
「どうですか?」
「もう一つでも食べられそうです」
「帰ったら昼にしましょう」
「それは今、買わないってことですね」
「また来た時に、焼きたてを食べましょう」
西野は店を振り返った。屋根の端に、割れた木の板が斜めに打ちつけてある。道を覚えるには、看板よりそちらの方が分かりやすかった。
家へ戻ると、錦戸は買った皿を洗った。
西野は棚を開け、中の器を少しずつ寄せた。古い皿を下へ入れようとして、手を止める。欠けた縁が棚の奥へ向くように直し、その上に今まで自分が使っていた皿を重ねた。
「そこ、入りそうですか?」
「二枚とも。ただ、昼に使うんでしょう」
「そうでした。では、まだ置かなくていいですね」
昼食は朝の残りの煮物と、切った野菜だった。
新しい皿へ移すと、同じものでも量が違って見えた。錦戸の薄茶色の皿には汁が中央へ集まり、西野の青い皿には具が広く並んだ。
「浅い方を選んだから、また最後に苦労しますね」
「今度は知ってますよ」
西野はパンを小さくちぎり、残りの汁へ入れた。
錦戸はそれを見て、自分のパンも同じくらいの大きさにした。二人が食べ終わる頃には、どちらの皿にもほとんど何も残っていなかった。
片づけようとした錦戸より先に、西野は青い皿を手に取った。縁の白い部分を一度親指で触り、それから薄茶色の皿と重ねる。
「明日の朝も、これでいいですか」
「ええ。私もそれがいいです」
洗って戻す時、西野は新しい二枚を一番上に置いた。
棚を閉めかけると、錦戸が横から覗いた。何か位置が違うのかと思って待ったが、彼女は直さず、小さく頷いただけだった。
七日目、西野の選んだ皿が、食器棚の一番上に収まった。




