第六日「干す場所」
朝、西野雄太が目を覚ますと、家の中に錦戸咲良の姿がなかった。
食卓には二本の鍵が並び、その横に畳んだ布が置かれている。鍋には蓋がされ、触れるとまだ温かかった。仕事へ行ったのなら自分の鍵だけ残すはずはない。西野は窓を開け、通りを見下ろした。
錦戸は家の脇に立ち、上を向いていた。
「何してるんですか?」
二階の窓から声をかけると、彼女は眩しそうに目を細めた。
「風を見ています」
「見えるんですか?」
「布が動いていますから」
錦戸が指した先では、向かいの家の高い窓から垂れた細長い布が、通りへ向かって揺れていた。空は晴れていたが、昨日より雲が低い。屋根の間を通る風には、海から来たらしい湿った匂いが混じっていた。
「今日は洗濯をしようと思っていたんですが、乾くか迷っていました」
「昨日の粉ですか?」
「それもあります。西野さんの服も、そろそろ洗った方がいいでしょう」
西野は自分の袖を見た。肩についていた白い粉は昨夜かなり払ったはずだが、縫い目にはまだ残っている。髪から落ちたものも、寝具の上に少し散っていた。
「乾かなければ、中に置けばいいんじゃないですか」
「二人分を置く場所はありません」
「外にはあるんですか?」
錦戸は返事をせず、家の裏へ回った。
西野が着替えて下へ降りると、錦戸は細長い木の棒を二本持って戻ってきた。先端には金属の輪がついている。彼女はそれを壁へ立てかけ、食卓にあった鍵を一つずつ持ち上げた。
「今日は仕事、休みなんですか?」
「昼からです。昨日の続きを別の人たちが確認するので、私は記録を渡すだけです」
「じゃあ、朝のうちに洗うんですね」
「そのつもりでした」
錦戸は自分の鍵を腰へ入れ、西野の鍵を彼に渡した。昨日までなら机の上を指すだけだったかもしれない。西野も受け取ることに慣れ、革紐をポケットの内側へ留めた。
朝食のあと、二人は洗うものを集めた。錦戸は仕事着を大きな籠へ入れ、西野の上着もその上へ重ねる。籠は一つだったが、持ち手が両側についていた。
「それ、一人で持つ形じゃないですよね」
「重い時は二人で持ちます」
「今も重いでしょう」
西野が片方を持つと、錦戸は反対側へ回った。
「僕が全部持てますよ」
「階段で傾きます」
「じゃあ、下までは二人で」
「洗い場までです」
錦戸は先に歩き始めた。西野も籠を持ち上げ、歩調を合わせた。
共同の洗い場は、家の裏手から二本先の通りにあった。低い屋根の下を水路が通り、石で囲まれた四角い水槽が三つ並んでいる。朝早いのに既に何人かがいて、衣服を水へ沈めたり、平たい石の上で布を擦ったりしていた。
水槽ごとに水の色が違って見えた。一番手前は透明で、中央はごく薄い青、奥のものには白い泡が浮いている。
「順番があるんですか?」
「奥で汚れを落として、真ん中ですすいで、最後に手前の水を通します」
「最後が一番きれいなんですね」
「一応は。ただ、間違えて使う人もいます」
錦戸は奥の水槽の空いている場所へ籠を置いた。水に手を入れると、底から白い泡がゆっくり上がってくる。石鹸を溶かした水ではなく、水槽の側面に埋め込まれた青い石から泡が出ていた。
西野が指で触れると、石はわずかに温かかった。
「これも結界ですか?」
「何でも結界にしないでください。水を動かしているだけです」
「魔法ではあるんですね」
「たぶん、西野さんが考えているより小さなものです」
錦戸は仕事着を水へ沈めた。白い粉が水面へ広がったが、すぐに泡へ紛れて見えなくなる。西野も自分の上着を入れ、見よう見まねで布を押した。
水の中で衣服は思ったより重くなった。持ち上げようとすると片側だけが伸び、錦戸がすぐに反対の端を支えた。
「無理に引かないでください。形が崩れます」
「これくらいで崩れるんですか」
「西野さんの服はこちらの織り方と違いますから」
錦戸は袖口を確かめ、縫い目に沿って指を滑らせた。初めてこの町へ来た時から着ている服だった。目立った破れはないが、袖の内側には細かな傷が増えている。
「予備はありますか?」
「一応。でも、似たようなものですよ」
「町の服を買ってもいいかもしれませんね」
「僕に似合いますか?」
「着れば似合うようになります」
「ずいぶん乱暴な理屈ですね」
「今の服も、西野さんが着ているから西野さんの服に見えるでしょう」
錦戸は当然のことのように言い、袖を水へ戻した。
西野はその横顔を少し見てから、自分の服の裾を押した。泡が指の間から抜けていく。洗う前より布が柔らかくなった気がした。
二人は衣服を一枚ずつ中央の水槽へ移した。薄い青色は水そのものではなく、底に引かれた線の光だった。錦戸が布を沈めると、光が織り目を通り、奥の水槽で落ちなかった白い粉を浮かび上がらせた。
「昨日の粉は、普通の水だけだと残ります」
「仕事をする人の服は毎回ここで洗うんですか?」
「粉を使った日は。少しくらいなら、そのままの人もいます」
「錦戸さんは残ってましたね」
「昨日は帰るのが遅かったので」
「その前の日の分も残ってましたよ」
錦戸の手が止まった。
「よく見ていますね」
「目の前にいるんですから見えますよ」
西野はそれ以上追及せず、彼女の仕事着を光の上へ広げた。肩の部分から白いものが細く流れ出し、水面で消えた。昨日、自分が払った場所だった。
最後の水槽へ移す頃には、洗い場に来た時より籠の中身が少なく見えた。汚れが落ちたからではなく、濡れた布が小さくまとまっただけなのだろう。
西野が水槽から上着を引き上げると、袖から落ちた水が靴にかかった。
「絞らないんですか?」
「その服は強く絞らない方がいいです」
「このまま持って帰ったら、道が水浸しになりますよ」
「そこで水を抜きます」
錦戸は洗い場の端にある二本の柱へ行き、間に渡された縄へ濡れた仕事着を掛けた。縄の下には浅い溝があり、落ちた水は水路へ戻るようになっている。
柱の一つには、小さな金属板が埋められていた。錦戸が指で押すと、縄がかすかに震えた。布から水滴が一斉に落ち、屋根の下に短い雨が降った。
「便利ですね」
西野は自分の上着も掛けた。
「これならここで乾かせるんじゃないですか?」
「水を落とすだけです。長く使うと布が傷みます」
「何でも少しずつなんですね、この町の魔法は」
「一度に済ませようとすると、別のところへ負担がかかりますから」
錦戸は金属板から指を離した。震えが止まり、残った水滴が一つずつ溝へ落ちた。
洗濯物を籠へ戻し、二人は来た道を帰った。今度は中身が濡れている分だけ重かったが、西野は持ち手を握り直すだけで何も言わなかった。錦戸も任せきりにはせず、同じ高さを保って歩いた。
家へ着くと、錦戸は壁に立てかけてあった二本の棒を持って裏へ回った。家の背後には、人が一人通れるほどの細い空間がある。隣家との間に陽はほとんど入らず、地面には苔が生えていた。
「ここで干すんですか?」
「屋根の上です」
錦戸は棒の先端を壁の穴へ差し込んだ。金属の輪が淡く光り、折り畳まれていた足場が壁からゆっくり開いた。階段と呼ぶには一段ごとの幅が狭く、梯子よりは傾きが緩い。
「こんなのがあったんですね」
「昨日までは使う必要がありませんでしたから」
錦戸は籠を持ち上げようとした。西野は先にその両側を掴んだ。
「これは僕が持ちます。錦戸さんは前を歩いてください」
「足元が見えなくなりますよ」
「だから前にいてください。どこに足を置くか言ってくれればいいです」
錦戸は西野の顔を見た。止める理由を探したようだったが、やがて籠から手を離した。
「三段目だけ少し狭いです。そこでは右足から上がってください」
「分かりました」
錦戸が先に階段を上り、西野が続いた。三段目は言われた通り狭く、籠の角が壁に当たりそうになった。錦戸は上から手を伸ばしたが、西野は一度立ち止まり、自分で籠の向きを変えた。
「大丈夫です」
そう言うと、彼女は手を引かなかった。ただ籠ではなく、西野の腕の届くところへ置いたまま待っていた。
最後の一段を上がり、二人は屋根へ出た。
平らな屋根の周囲には低い柵があり、その内側に何本もの穴が並んでいる。二本の棒を離れた穴へ立てると、錦戸は金属の輪の間へ細い紐を通した。紐は途中で風に流されたが、西野が受け取り、反対側へ結んだ。
町の屋根が低く重なって見えた。第三日に歩いた端の方角には建物が途切れ、その先に海の青さが細く覗いている。地上では入り組んでいた道も、上からなら大まかな向きが分かった。
「ここから海が見えたんですね」
「晴れていれば、もう少しよく見えます」
「最初に教えてくれてもよかったでしょう」
「西野さんは歩いて見つけたかったんじゃないですか?」
「まあ、それはそうですけど」
錦戸は濡れた仕事着を広げ、紐へ掛けた。西野も自分の上着を隣へ並べる。二人分の衣服は風を受け、同じ方向へ膨らんだ。
籠の底には、最後に大きな布が一枚残っていた。西野が持ち上げると、夜に使っている寝具の覆いだった。
「これも洗ったんですか?」
「粉が落ちていましたから」
「僕の方ですよね」
「どちらから落ちたかは分かりません」
「昨日、僕はそのまま寝ましたよ」
「私も仕事着を部屋まで持っていきました」
錦戸は布の片側を持った。
「ですから、二人分です」
西野は反対側を持ち、風に煽られないよう一緒に紐へ掛けた。布は他の衣服より大きく、中央で深くたわんだ。錦戸が端を引き、西野も同じだけ反対へ寄せる。ようやく形が整った時、布の向こうから長い耳が二本現れた。
二人とも手を止めた。
昨日まで町で見たものと同じ、猫ほどの生き物が屋根の柵に座っていた。薄い灰色の体を丸め、耳だけを風の中へ立てている。
「ここまで上がってくるんですね」
西野が布の脇から覗くと、生き物は逃げずに鼻を動かした。
「洗い場についてきたんでしょうか」
「菓子の匂いはしないと思いますけど」
「西野さんの服からしたのかもしれません」
「昨日は持ってませんよ」
生き物は二人の話を聞いているのかいないのか、柵から屋根へ降りた。そして濡れた布の影へ入り、前足を伸ばして伏せた。
「そこ、乾きにくくなりませんか?」
「少しくらいなら大丈夫です」
錦戸は追い払わなかった。西野も布の端をもう一度直し、生き物に水が落ちないよう、たわみを少し外側へ寄せた。
風は弱かったが、止んではいなかった。衣服が揺れるたび、屋根の上を光と影が往復する。下の通りからは荷車の音や店を開ける声が聞こえた。町は動き始めているのに、屋根の上だけが取り残されたように静かだった。
「昼から行くなら、もうあまり時間ないんじゃないですか?」
「記録を渡すだけなので、急がなくても間に合います」
「僕が残りを見ておきますよ。雨が降ったら取り込めばいいんですよね」
錦戸は空を見た。
「風が強くなった時もお願いします。棒の輪が赤く光ったら、紐ごと外してください」
「外したあとは?」
「階段の途中に掛ける場所があります」
「分かりました」
西野が頷いても、錦戸はすぐには階段へ向かわなかった。干された衣服を端から確かめ、大きな布の結び目に触れ、それから西野の上着をもう少し陽の当たる方へ動かした。
「そんなに心配ですか?」
「西野さんの服は町の布より傷みやすいので」
「洗濯物のことじゃなくて、僕を一人残すことです」
錦戸の手が、上着の袖を持ったまま止まった。
「昨日は一人で町を歩いて、鍵を使って帰ってきたでしょう」
「そうでした」
「屋根から下りられなくなることもないと思います」
「それなら任せてください」
西野は紐の結び目を軽く引いた。しっかり留まっている。
錦戸はようやく手を離した。
「昼の分は鍋にあります。先に食べていてください」
「錦戸さんの分も残しておきますよ」
「遅くなったら、西野さんが食べてください」
「遅くならないように帰ってきてください」
西野が言うと、錦戸は一度瞬きをした。
「はい」
短く答え、階段を下りていった。
屋根には西野と、長い耳の生き物が残った。
しばらくすると雲の間から陽が差し、濡れていた布の表面が明るくなった。西野は柵にもたれ、見える範囲の町を眺めた。市場の屋根、昨日の石柱らしい細い影、その向こうには町の端と海がある。まだ知らない道の方が多かったが、まったく知らない場所ではなくなっていた。
風が少し強くなり、二本の棒が揺れた。
西野は輪を確かめた。光は青いままだった。赤くはない。生き物は耳を伏せたが、動こうとはしなかった。
「僕でも見ていられる程度ですよ」
返事はなかった。
昼を過ぎる頃には、薄い衣服から順に乾き始めた。西野は自分の上着を外し、次に錦戸の仕事着へ触れた。肩の白い粉は消えていた。代わりに、洗った布と陽の匂いがした。
大きな布だけは中央がまだ湿っていたので、位置を変えて掛け直した。下にいた生き物が迷惑そうに顔を上げる。
「乾かないと、僕の寝るものがないんですよ」
西野が言うと、生き物は立ち上がり、今度は錦戸の仕事着が作る影へ移った。
「そっちはいいんですかね」
追い払おうか迷ったが、錦戸なら少しくらい大丈夫だと言う気がした。西野はそのままにして、乾いた衣服を畳み始めた。
錦戸が戻ってきたのは、西野が最後の布を外した直後だった。
屋根の下で戸が開き、階段を上る足音がする。西野は畳んだ洗濯物を籠へ入れながら待った。
「全部乾いたんですか?」
屋根へ顔を出した錦戸が尋ねた。
「大体。大きい布は少し湿ってますけど、下へ掛ければ夜までには乾くと思います」
「風は大丈夫でしたか?」
「一度強くなりました。でも輪は青いままでした」
錦戸は棒の輪を見てから、籠の中へ目を落とした。自分の仕事着が一番上にあり、その袖は西野の上着と同じ幅に畳まれていた。
「畳み方、違いましたか?」
「いいえ」
錦戸は仕事着を持ち上げ、肩の部分を確かめた。
「きれいになっています」
「二人で洗ったんですから、当然でしょう」
西野は残っていた大きな布を外した。錦戸が片側を受け取り、朝と同じように二人で畳んだ。一度では端が揃わず、広げ直してもう一度折った。
長い耳の生き物は、いつの間にか柵の上へ戻っていた。錦戸が近づくと、今度は隣家の屋根へ飛び移った。振り返りもせず、細い隙間を歩いていく。
「結局、何なんですか、あれ」
「この町に昔からいるものです」
「名前は?」
錦戸は少し考えた。
「人によって違います」
「錦戸さんは何て呼んでるんですか?」
「呼んだことはありません」
「じゃあ、今度来たら決めましょう」
「また来ると思っているんですか?」
「二日続けて会いましたから」
「昨日のものと同じとは限りませんよ」
「同じじゃなくても、来たものにつければいいでしょう」
錦戸は隣家の屋根を見た。生き物の長い耳だけが、煙突の向こうへ消えるところだった。
「西野さんが決めるなら、それで呼びます」
「一人で決めるとは言ってませんよ」
二人は籠を持ち上げた。今度も西野が片側を持ち、錦戸が反対を持った。
階段の三段目で、西野は言われなくても右足から下りた。籠は壁に当たらず、二人の間でほとんど傾かなかった。
六日目、西野の服と錦戸の服は、同じ風の中で乾いた。




