第五日「白い線」
朝、食卓の中央には二本の鍵が並んでいた。
先に起きた錦戸咲良は自分の鍵を腰の袋へ入れ、西野雄太の鍵には触れなかった。西野が部屋から出てくると、昨日つけた革紐を指にかけ、自分で上着のポケットへ収めるところを見てから、鍋の蓋を開けた。
「今日は少し早いんですね」
「家の近くで仕事があるので、いつもより遅く出ても間に合います」
錦戸は温めた穀物を器へ分けた。仕事着の肩には、昨日より少ないものの白い粉がまだ残っている。洗えば落ちるのだろうが、指で払っただけでは薄く広がるばかりだった。
「昨日、それがついてましたよ」
西野が自分の肩を指して言うと、錦戸も同じ場所を見た。
「結界の線を探すための粉です。昨日は風が強くて、ずいぶん被ってしまいました」
「線なら見えないんですか?」
「普通は見えません。見えるようにしてから、切れているところや重なりすぎているところを探します」
昨日、鍵を差し込んだ時に戸の枠へ見えた線を思い出した。家の結界と鍵の結界が重なり、それを錠が持ち主として認める。町にも同じようなものが張られているなら、錦戸の仕事は、目に見えない壁を毎日少しずつ確かめることなのだろう。
「見に行ってもいいですか?」
錦戸は匙を止めた。
「見ても面白くないですよ」
「面白いかどうかは見てから決めます。俺も今日は近くを歩くつもりでしたから」
「仕事の邪魔はしないでくださいね」
「見学するだけです」
錦戸はまだ何か言いたそうだったが、結局は頷いた。
二人は朝食を終え、同じ戸から外へ出た。錦戸が鍵をかける間、西野は通りの先を見ていた。朝のブレドツリュウゲは既に人が多く、井戸の周りには水を運ぶ者が並び、窓から窓へ張られた紐には洗った布が揺れている。
仕事場は家から歩いて十分ほどのところにあった。市場へ向かう道の途中で細い水路を越え、昨日西野が革紐を買った店より手前を曲がる。そこには三つの通りが交わる小さな広場があり、中央に低い石柱が立っていた。
石柱の周りには錦戸と同じような仕事着を着た者が三人いた。一人は長い棒を地面へ当て、もう一人は木箱の中から白い粉を小さな器へ移している。残る一人は広場を通る人々に、石柱の近くを避けるよう声をかけていた。
「今日はここから水路までです」
錦戸は西野へ言い、それから三人に挨拶した。彼らは西野を見たが、誰なのか尋ねなかった。錦戸が連れてきたのなら、その場にいてよいのだろうと考えたらしい。
木箱の前にいた女性が錦戸へ器を渡した。錦戸は粉を指先につけ、石柱の根元へ細く撒いた。粉は地面へ落ちる前に一度だけ浮かび、見えないものへ貼りつくように空中で線を作った。
白い線は石柱から通りの端まで伸びていた。真っ直ぐではなく、建物の角や水路を避けて何度も曲がり、ところどころで二本、三本に分かれている。
「ずいぶん複雑ですね」
「この辺りは家の結界が多いので。町の結界だけなら、もっと単純です」
長い棒を持った男が線の一本へ棒の先を近づけた。軽い音がして、白い粉が波のように揺れた。男は何歩か移動し、また同じことを繰り返す。
西野は広場の端に立って見ていた。やがてポケットの中で、鍵が小さく震え始めた。
昨日、水路の板を渡った時と同じ感触だった。取り出してみると、輪の内側に薄い光がある。白い線へ近づけると光は強くなり、離すと弱くなった。
「錦戸さん」
呼ぶと、錦戸はすぐに振り向いた。西野が鍵を見せると、彼女は粉の器を女性へ返し、こちらへ来た。
「昨日も光ったと言っていましたね」
「ここではさっきより分かりやすいです」
錦戸は鍵へ触れず、白い線と見比べた。
「家の結界がこの辺りまで伸びているのかもしれません。西野さん、線の外側をゆっくり歩いてもらえますか」
「見学するだけじゃなくなりましたね」
「嫌ならしなくていいです」
「いえ、やりますよ」
西野は鍵を手に持ち、白い線から一歩離れたところを歩いた。錦戸は半歩ほど後ろをついてくる。鍵は一定の間隔で弱く震えたが、広場の角へ差しかかると急に動かなくなった。
「ここで消えました」
立ち止まると、錦戸も止まった。地面には白い線が続いている。しかし鍵の光は消え、鉄の表面には朝の光が映るだけだった。
錦戸はしゃがみ、線の上へ新しい粉を撒いた。下にあった白さが濃くなり、その中から細い黒い隙間が現れた。
「切れているんですか?」
「町の結界は続いています。ここで重なっていた家の結界だけが、別の方へ流れています」
彼女は隙間へ指を近づけた。黒い部分がゆっくり動き、水路の方向へ伸びていく。見えない糸が地面の下を通っているようだった。
長い棒を持った男も来て、棒の先を隙間へ当てた。白い粉が一度大きく浮かび、周囲へ散った。
西野は顔を背けたが、上着の肩と髪に粉がかかった。
「大丈夫ですか?」
錦戸は立ち上がると、男より先に西野の前へ来た。
「粉だけですよ」
「目に入っていませんか」
「入ってません。錦戸さんの方が近かったでしょう」
彼女の頬にも白いものがついていた。西野が指で示すと、錦戸は自分で払おうとして、かえって薄く広げた。
「昨日もそうなってましたよ」
「分かっています」
少し不満そうに言いながら、錦戸は布を水で濡らした。自分の頬を拭く前に西野へ差し出す。西野は受け取り、目の周りだけを拭いてから彼女へ返した。
仕事はそのまま続いた。黒い隙間の向きを確かめると、一本の細い線が水路沿いの家へ伸びていることが分かった。その家の戸枠には古い結界が残り、町の結界へ何度も重なっていた。
錦戸たちは家の持ち主を呼び、戸を開けてもらった。壊すような作業ではなかった。棒で線の位置を少しずつずらし、白い粉を撒き直し、重なりが二本になるところを一本へ戻していく。
西野は頼まれて、鍵の光が戻る場所を何度か確かめた。歩いて止まり、光を見せる。それだけだったが、先ほどまでより作業は早く進んだ。
「役に立つ鍵ですね」
木箱の女性が言った。
「家に入るためのものですけどね」
西野は答え、鍵を握り直した。役に立つから持っているのではない。昨日渡された時から、これは自分が帰るための鍵だった。それでも別の使い方があるなら、使わない理由もなかった。
昼前には白い線が水路まで途切れず続いた。最後に錦戸が指先で線へ触れると、粉は光を失って地面へ落ちた。風が吹けば消えてしまいそうな白さだけが、石の隙間に残った。
三人のうち二人は別の場所へ向かい、錦戸と棒を持った男は道具を木箱へ戻した。西野は持つよう頼まれていなかったが、蓋を閉める時だけ箱の端を押さえた。
広場の向こうで昼を知らせる鐘が鳴った。音は一度では終わらず、少し間を置いてから同じ高さでもう一度響いた。通りにいた人々の何人かが足を止め、店先では朝から吊られていた布が畳まれ始めた。
錦戸は腰の袋から小さな包みを出した。中には薄いパンが二枚と、香草を混ぜた豆のようなものが入っていた。
「二人分あるんですか?」
「西野さんが来ると言ったので、出る前に増やしました」
「いつの間に」
「鍵を取っている間です」
朝、食卓から自分の鍵を取った時、錦戸は鍋の前にいた。西野は革紐が昨日と同じ位置にあるか確かめていて、その間に彼女が何を包んでいたのか見ていなかった。
二人は水路の縁に座った。流れる水は浅く、底に敷かれた平たい石まで見える。上流で誰かが桶を入れるたび、水面だけが大きく揺れた。
錦戸はパンの一枚を西野へ渡し、豆の包みを二人の間へ置いた。西野は先に半分ほど食べ、残りを持ったまま白い線の跡を眺めた。
「次に来るなら、顔を隠す布があった方がいいですね」
錦戸は食べる手を止めた。
「また来るんですか?」
「邪魔でなければ。今日は途中から使われていましたし」
「使ったわけではありません」
「手伝った、でもいいですよ」
錦戸は否定を続けず、自分の水筒を渡した。西野が一口飲んで返すと、彼女は口をつける場所を選ぶようなこともせず、そのまま飲んだ。
「では、今度は布を二枚持ってきます」
「今度があるんですね」
「西野さんが来ると言ったんでしょう」
錦戸は包みを閉じて立ち上がった。西野も残っていたパンを食べ終え、石の縁から腰を上げた。
「見学はどうでしたか?」
帰り道で錦戸が尋ねた。
「思っていたより地味でした」
「だから言ったじゃないですか」
「でも、嫌ではないですよ。町が勝手に守られているわけではないと分かりましたから」
錦戸は前を向いたまま、少しだけ歩調を緩めた。二人は水路の板を順番に渡った。西野の鍵はもう震えなかった。
家へ戻ると、錦戸は仕事着を脱ぐ前に西野の肩を払った。白い粉は舞い上がり、床へ落ちた。
「まだついてますか?」
「髪にも少し」
「洗えば落ちますよ」
「錦戸さんもです」
西野は彼女の肩へ手を伸ばし、昨日から残っていた分と今日ついた分をまとめて払った。錦戸は動かず、彼が手を離してから自分の仕事着を見た。
「これで同じくらいですね」
「何がですか?」
「汚れ方が」
西野が言うと、錦戸はようやく笑った。
五日目、西野の肩にも、錦戸と同じ白い粉が残った。




