第四日「鍵」
朝、西野雄太が目を覚ますと、台所から硬いもの同士が触れる音がしていた。
錦戸咲良は食卓の上に昨日の菓子の残りを置き、その隣で小さな紙を読んでいた。紙にはブレドツリュウゲの文字が細かく並び、一番下に丸い印が押されている。西野には読めない字ではなかったが、寝起きの頭で追うには面倒そうだった。
「仕事の連絡ですか?」
「いいえ。この家の管理人さんからです。鍵ができたので、朝のうちに持ってくるそうです」
「鍵ならありますよね」
錦戸は腰の袋から一本取り出した。黒ずんだ鉄の鍵で、持ち手の輪に家の番号が刻まれていた。
「今はこれだけです。昨日まで、西野さんが出る時は私が戸を開けたままにしていましたから」
言われてみればそうだった。西野は町へ出たあと、自分が鍵を持っていないことを一度も気にしなかった。帰った時には錦戸が先に戻っていたし、家の戸は内側から開いた。自分のために開けられていたのだと考えると、少しだけ落ち着かなかった。
朝食を終える前に戸が叩かれた。錦戸が出ると、灰色の上着を着た小柄な男が立っていた。男は遅くなったことを詫び、布に包んだ鍵を一本渡した。錦戸は確かめるように鍵を戸へ差し込み、半分だけ回してから抜いた。
「西野さん」
呼ばれて近づくと、錦戸はその鍵を彼の手のひらに置いた。
「持っていてください」
「錦戸さんの予備じゃないんですか?」
「私は一本あれば足ります」
「僕も、錦戸さんがいるならなくても困りませんよ」
錦戸は鍵を取り戻さなかった。西野の手のひらに置いたまま、指先で彼の指を少しだけ閉じさせた。
「私がいない時に帰ってくることもありますから」
それだけ言って食卓へ戻った。西野もそれ以上は言わず、鍵を制服の上着のポケットへ入れた。重さはほとんどなかったが、歩くたびに布の内側へ触れるのが分かった。
錦戸が仕事へ出てから、西野も家を出た。昨日は町の反対側まで歩いたので、今日は中央に近い通りをゆっくり見ることにした。自分が同じ場所を避けているようにも思えたが、町が一日で見終わるほど狭くないことは既に知っていた。
井戸の前には昨日と同じように人が並んでいた。ただし顔ぶれは違い、汲み上げた水をその場で飲んでいる者もいた。石造りの水路には朝の光が入り、水面の揺れが建物の壁まで映っている。水路の上には細い板が何枚も渡され、人々はそれを橋とも思っていない様子で踏んでいった。
西野も一枚を渡ったところで、ポケットの鍵が軽く震えた。
立ち止まって取り出すと、鍵の輪の内側に薄い光が残っている。目で見なければ気づかないほど弱く、昨日、錦戸が話した結界の重なりに似ていた。
「家から離れたら反応する、とかですかね」
独り言を聞いた通行人が一度こちらを見た。西野は気にせず鍵を裏返した。光はすぐに消え、ただの古い鉄に戻った。
中央の市場は昨日歩いた道より騒がしかった。屋根のある通路の両側に布、器、干した魚、香草、木で作られた玩具などが並んでいる。店ごとに声の大きさが違い、何も言わず座っている老人の前にも客はいた。
西野はパンを二つ買った。丸く平たいものと、細長く焼かれたものを一つずつ選ぶと、店の女は別々の袋へ入れようとした。
「一緒でいいですよ。同じ家に持って帰るので」
言ってから、説明する必要はなかったと思った。女は気にした様子もなく、一つの紙に二つを包んだ。
隣の店には革紐が吊るされていた。西野は一番細いものを手に取り、値段を聞いた。鍵をそのままポケットへ入れておくより、輪に通しておいた方がなくしにくい。自分が物をなくす人間だとは思っていなかったが、初日に鍵をなくすのは間が悪かった。
店主は鍵を見て、家を借りたのかと尋ねた。
「まあ、住むことになりました」
「新しい鍵なら、結び目に気をつけな。魔力を通すところを塞ぐと、戸の前で嫌われるぞ」
西野は鍵の輪をもう一度見た。内側に小さな溝があり、そこへ革紐を固く巻けば確かに光を隠してしまう。
「鍵にも好き嫌いがあるんですか?」
「家の方にあるんだよ。鍵はそれを覚えさせるだけだ」
店主はそれ以上説明しなかった。西野も分かったふりをせず、溝を避けて紐を通した。首から下げるほど長くはせず、輪を作ってポケットの内側へ留めた。
市場を出たところで、昨日、町の端で見たものと同じ種類らしい生き物が壁の下にいた。猫ほどの大きさで、耳だけが不釣り合いに長い。今日は菓子を持っていなかったので、西野が手を出しても近づいてこなかった。
「現金ですね」
生き物は耳を一度動かし、日の当たる方へ歩いていった。昨日の一匹と同じものかは分からなかった。町には人間が見分けていないだけで、同じような生き物が何匹も暮らしているのだろう。
昼を少し過ぎて、西野は家へ戻った。
誰もいない戸口に立つと、昨日までとは違って見えた。建物そのものは変わっていない。掃除をしても取りきれなかった壁の染みもあり、戸の下には細い隙間がある。それでも、開けてもらうのを待たなくていいという一点だけが違っていた。
鍵を差し込む。途中でわずかに引っかかり、それ以上入らなかった。
西野は力を込めず、一度抜いた。革紐は溝にかかっていない。鍵の向きを確かめ、今度は戸の周囲を見た。枠の内側に薄い線が走っており、昨日錦戸が指で描いた二重の結界と同じように、角の部分だけ線が重なっている。
「鍵より家の方ですか」
戸に向かって言い、鍵をもう一度差し込んだ。今度は奥まで入り、錠の中で小さなものがほどけるような感触がした。回すと、音は思ったより軽かった。
家へ入った西野は、買ってきたパンを食卓へ置いた。誰もいない部屋で戸を閉めると、外の声が急に遠くなる。彼は鍵を机の端へ置きかけ、やめてポケットへ戻した。錦戸が帰るまでは、自分がこの家を開ける側だった。
昼の分として平たいパンを半分食べ、残りと細長いパンを布で包み直した。それから水を汲み、昨日使った器を洗った。椅子の一本が少し揺れていたので裏返して見ると、脚を留める木片が緩んでいる。道具は多くなかったが、細い布を噛ませて戻すと揺れは収まった。
大したことはしていない。それでも誰かが帰ってくる家で何もしないまま待つよりはよかった。
夕方になっても錦戸は戻らなかった。西野は一度戸を開け、通りの先を見た。仕事が何時に終わるとは聞いていない。探しに行く理由も、心配するほど遅いと決める基準もなかったので、戸を閉めた。
暗くなり始めた頃、鍵が錠へ入る音がした。
西野が振り向くより先に戸が開き、錦戸が入ってきた。肩の辺りに白い粉のようなものがつき、髪も少し乱れている。彼女は西野を見て足を止め、それから室内を一度見回した。
「帰っていたんですね」
「ええ。ちゃんと鍵も使えました」
西野がポケットから鍵を出すと、革紐が揺れた。錦戸はそれを見て、わずかに目を細めた。
「紐をつけたんですか?」
「なくしたら困りますから。俺の鍵ですし」
「そうですね」
彼女は短く答え、自分の鍵を食卓へ置いた。西野もその隣へ鍵を置いた。形は同じだったが、錦戸のものには細かな傷があり、西野のものはまだ黒い表面が滑らかだった。
錦戸は椅子へ座ると、揺れなくなったことに気づいたらしく、足元を見た。
「直したんですか?」
「布を挟んだだけですよ。また緩むと思います」
「それでも助かります」
西野はパンの包みを開いた。錦戸は自分の分を受け取ったが、すぐには食べず、彼の方を見た。
「西野さんは食べましたか?」
「昼に半分。残りはあります」
「半分だけですか」
「二つ買ったんですから、勝手に全部食べるわけにもいかないでしょう」
錦戸は何か言いかけて、パンを半分に割った。大きい方を西野の前へ置き、自分は小さい方を手に取った。
「それなら、これは二人で食べる分です」
西野は戻そうとしたが、彼女は既に食べ始めていた。仕方なく受け取り、一口かじった。昨日の菓子ほど甘くはなく、少し塩気があった。
食事のあと、西野は鍵が光ったことを話した。錦戸は二本の鍵を並べ、指先でそれぞれの輪に触れた。薄い光が広がり、二つの小さな円になった。円は触れ合っても一つにならず、そのまま重なった。
「鍵の結界と家の結界が重なって、持ち主を確かめます。誰かが同じ形の鍵を作っても、それだけでは開きません」
「昨日の話を、今日は鍵でやっているんですね」
「町では珍しくない使い方です」
「じゃあ、錦戸さんが僕に渡す前から、これは僕の鍵だったんですか?」
錦戸の指が止まった。
「管理人さんには、もう一人住む人がいると伝えていましたから」
「なるほど」
西野はそれ以上聞かなかった。錦戸も説明を足さず、光を消した。二本の鍵はまた、傷の数が違うだけの鉄に戻った。
眠る前、西野は自分の鍵を持って部屋へ行こうとした。戸口まで進んでから振り返ると、錦戸の鍵が食卓に一つ残っている。
彼は少し考え、自分の鍵もその隣へ置いた。
「持っていかないんですか?」
「家の中でなくす方が面倒ですから。明日、ここから持っていきます」
錦戸は頷き、二本が落ちないよう食卓の中央へ寄せた。
四日目、同じ家を開ける二本の鍵は、同じ場所で夜を越した。




