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第三日 反対側

 朝、西野雄太は錦戸咲良より少し早く目を覚ました。


 外はまだ静かだった。


 隣を見ると錦戸は眠っている。


 西野はそのまま起き上がり、台所へ行った。


 昨日買ったパンが残っていた。


 切ればいいのだろうと思ったが、包丁がどこにあるのか分からない。


 棚を二つ開けた。


 三つ目にあった。


「何してるんですか」


 後ろから声がした。


「起きたんですか」


「音がしたので」


「朝飯です」


 錦戸はまだ眠そうだった。


「作ってくれるんですか?」


「パン切るだけですけど」


「じゃあお願いします」


 錦戸は椅子に座った。


 西野はパンを切った。


 少し厚さがばらばらになった。


「こっち錦戸さんでいいですか」


「どうして厚い方なんですか?」


「多い方がいいでしょう」


「西野さんが食べてください」


「じゃあ俺が食べます」


 そのまま厚い方を取った。


 錦戸は昨日買った葉を出した。


「それ生で食べるんですか?」


「食べられますよ」


「昨日食べてないですよね」


「忘れてました」


 二人で食べた。


 葉は少し苦かった。


「これ別にいらないですね」


「買ったから食べてください」


「錦戸さんが買ったんでしょう」


「二人の食べ物です」


「そういうことにしますか」


 食べ終わる頃には、外も明るくなっていた。


 錦戸は昨日と同じような服に着替えた。


「今日も説明ですか?」


「今日は少し仕事すると思います」


「何を?」


「行ってみないと分からないです」


「自由ですね」


「自由じゃないですよ。呼ばれたところに行くんですから」


 錦戸は袋を持った。


 扉を開ける。


「今日は海じゃない方に行くんですよね」


「その予定です」


「帰る前に暗くなったら、無理に歩き回らないでくださいね」


「分かってますよ」


「本当に?」


「俺、子供じゃないですから」


「知ってます」


 錦戸はそう言って出ていった。


 西野は鍵を掛けた。


 しばらく家にいた。


 昨日途中まで読んだ本を開いたが、今日はあまり読む気にならなかった。


 窓の外を人が通る。


 西野は本を閉じた。


 外へ出る。


 昨日は海へ向かったので、今日は反対へ歩いた。


 しばらくは見覚えのある道だった。


 そこから一本、昨日通っていないところへ入る。


 人通りが少し減った。


 店より家が多い。


 窓辺に布を干している家があった。二階から籠を下ろして、下にいる人が中へ何かを入れている。


 さらに歩くと、小さな広場に出た。


 中央に井戸のようなものがある。


 何人かが水を汲んでいた。


 昨日の家にも水は出る。


 なら、何のための井戸なのだろうと思った。


 西野は近づいた。


 水を汲んでいる老人がいた。


「これ、飲めるんですか?」


「飲めるよ」


「家にも水ありますよね」


「ある家にはな」


「ああ」


 それだけだった。


 西野は井戸の中を覗いた。


 かなり深い。


「落ちるなよ」


「落ちませんよ」


 老人に言われた。


 西野は離れた。


 広場の端には小さな店があった。


 焼いた穀物のような匂いがする。


 中へ入る。


 丸いものが何種類か並んでいた。


「これは?」


 西野が一つ指す。


 店の女が名前を言った。


「甘いですか?」


「少し」


「じゃあ一つください」


 買って外で食べた。


 甘くなかった。


「少しって何なんだ」


 口の中で呟いた。


 食べられないほどではない。


 むしろ塩気があって悪くなかった。


 西野は歩きながら全部食べた。


 その先には坂があった。


 町は海側へ低くなっているらしい。


 坂を上る。


 途中から建物がまばらになった。


 土の見える場所が増えた。


 小さな畑もある。


 西野は足を止めた。


 昨日まで、ブレドツリュウゲを大きな町として見ていた。


 しかし当然、どこまでも建物が続いているわけではない。


 町の端がある。


 道の先には門のようなものがあったが、大きな城門ではない。簡単な詰所と、道を狭める柵があるだけだった。


 荷車が一台、外から入ってくる。


 西野はそこまで行かなかった。


 道の脇に腰を下ろした。


 ここからなら、少しだけ町を見下ろせる。


 屋根が並んでいる。


 その向こうに海が細く見えた。


「昨日はあそこにいたのか」


 独り言を言った。


 しばらく座っていた。


 何も起こらなかった。


 風が少し強かった。


 西野は立ち上がった。


 帰り道で、一匹の小さな生き物を見た。


 猫くらいの大きさだったが、猫ではない。


 胴が短く、耳が妙に長い。


 道端の石の上に座っていた。


「何だお前」


 生き物は西野を見た。


 逃げない。


 西野も近づかなかった。


「食べ物ないですよ」


 生き物は動かなかった。


 西野が歩き出すと、少し後ろをついてきた。


 振り返る。


 止まる。


「来るんですか?」


 動かない。


 また歩く。


 またついてくる。


「家までは駄目ですよ」


 西野は言った。


 意味が通じているとは思わなかった。


 広場まで戻ると、生き物は別の道へ行った。


「何だったんだ」


 西野は見送った。


 帰る途中、朝の店をもう一度通った。


 さっき食べたものをもう一つ買った。


「気に入ったのかい」


 店の女が言う。


「多分」


「多分?」


「もう一回食べたら分かります」


 女は笑った。


 西野は二つ買った。


 一つは袋に入れてもらった。


 家へ戻る。


 今日は一度も道を間違えなかった。


 錦戸はまだ帰っていなかった。


 西野は椅子に座った。


 朝買ったものを机の上に置く。


 少し考えて、食べずにそのままにした。


 それから本を読んだ。


 昨日より進んだ。


 文字を読むこと自体にはそれほど苦労しない。


 ただ、意味を知らない言葉が多い。


 何度か紙に書き写した。


 錦戸が帰ってきたら聞けばいいと思った。


 夕方になった。


 扉の向こうで足音がした。


 鍵が開く。


「ただいま」


「おかえりなさい」


 錦戸は昨日より少し遅かった。


 袋を置いて、椅子に座る。


「疲れました?」


「少し」


「何したんですか」


「結界を見てました」


「壊れてたんですか?」


「壊れてはいないです。古いので、少しずれてるところがあって」


「直したんですか?」


「今日は調べただけです」


 錦戸は卓の上の包みを見た。


「これ何ですか?」


「今日食べたやつです」


「名前は?」


 西野は黙った。


「忘れたんですか?」


「聞きましたよ」


「じゃあ何ですか?」


「忘れました」


 錦戸が笑った。


「食べます?」


「私に買ってきたんですか?」


「二つ買ったので、一個余ってます」


「じゃあ食べます」


 錦戸が包みを開いた。


 一口食べる。


「これ知ってます」


「有名なんですか?」


「普通にありますよ」


「甘いって言われたんですけど」


「甘いでしょう」


「これが?」


「少し」


 西野は納得できなかった。


「錦戸さん、こっちに来て味覚変わってません?」


「変わってないですよ」


「じゃあ東京でもこれ甘いって言います?」


「東京にはないです」


「逃げましたね」


「逃げてません」


 錦戸は残りを食べた。


 夕食は昨日より簡単だった。


 パンと、昼のうちに錦戸が買っていた肉、それから煮た豆。


 食べながら西野は今日見た井戸の話をした。


「家に水が来てないところもあるみたいですね」


「古い家だとそういうところありますよ」


「この家は当たりですね」


「そうですね」


「あと変なのいました」


「何がですか?」


 西野は見た生き物を説明した。


 錦戸は少し考えた。


「多分、知ってます」


「名前は?」


 錦戸が言った。


「それは覚えられそうです」


「昨日の果物は?」


「何でしたっけ」


「駄目じゃないですか」


 食事の後、西野は昼に書き写した紙を出した。


「これ何ですか?」


 錦戸に見せる。


「ああ、これは結界の境界が重なる時に使う言葉です」


「重なる?」


「二つの結界が完全に別々じゃなくて、一部分だけ同じ場所を取る時です」


 錦戸は紙の余白に簡単な図を書いた。


 二つの丸を少し重ねる。


「こういう感じです」


「これだけなら普通ですね」


「実際はもっと面倒です」


「でしょうね」


 西野は図を見る。


「今日それを見てたんですか?」


「似たようなものです」


「じゃあこれ読んでおけば手伝えます?」


「まだ無理です」


「即答ですね」


「だって西野さん、昨日椅子浮かせてたでしょう」


「あれは別の魔法です」


「そういう問題じゃないです」


 西野は笑った。


 錦戸も少し笑った。


 夜になった。


 西野は寝台に入り、今日歩いた道を思い返した。


 海と反対に行けば、町の端があった。


 当然のことだった。


「明日はどこ行くんですか?」


 錦戸が聞いた。


「まだ決めてないです」


「家にいてもいいんですよ」


「一日中?」


「別に」


「それも勿体ないですね」


 少し考える。


「まあ、明日起きてから決めます」


「そうしてください」


 錦戸は本を閉じた。


 部屋が暗くなる。


 三日目、西野はブレドツリュウゲにも端があることを知った。

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