↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
12/29

イクツドゥーク

 イクツドゥーク王国は魔術師連盟による支配を受けていて、王は儀礼的な存在として担ぎ上げられているだけである。リギュル王国を属国としている。首都はアブクズで、既存の宗教の変形(主にレンダーク教)で固有の宗教であるアンダークシャーハン教の中心が置かれている。その宗教と共鳴する形で反竜を掲げている国であり、その国に侵入した竜は全て駆逐の対象となる。冒険者ギルドの中北東の中心があると言ってもよく、その地で竜を討伐することを生業とする者も少なくない。人口600万人


イクツドゥーク誌 第一章 世界に場所を残す


 アンダークシャーハン教がいつ成立したのかについて、イクツドゥークの教会自身も一つの年代を定めていない。

 それは一人の預言者が突然始めた宗教ではなく、古くから各地に広がっていたレンダーク教の教説が、後にイクツドゥークとなる地域で長く読み替えられた末に成立したものと考えられている。特に影響が大きかったとされるのは淵世派である。

 レンダーク教淵世派は、世界を一つの原理へ還元することを好まなかった。一つであるということは、それを構成する多数のものがあるということであり、世界は互いに働き、互いに妨げ、互いを支えるものの円環として存在すると考えた。この世界が実際に形を持ってあることそのものを聖なるものと見る教説も、後のアンダークシャーハン教に強く残った。

 しかしイクツドゥークの人々は、それを魔術についての思索だけには留めなかった。世界が多数のものによって成り立つのであれば、一つのものが他の全てを押し退けてはならない。ある人が立つところには、その隣に別の人が立つ場所がなければならない。一つの家が水を取るなら、その下流で別の家が水を取れるだけの流れを残さなければならない。一人の王が国を治めるなら、その王の意思とは異なることを考える人間が国の中に生きられなければならない。

 このような考えが、後にアンダークシャーハン教の中心となった。現在ではしばしば「場所を残す教え」と説明される。ここでいう場所は、土地だけを意味しない。

 言葉を語る場所、生活する場所、考える場所、名を持つ場所、死者を記憶する場所も含まれる。一人の人間が世界の中に存在するということは、何らかの場所を占めることである。それ自体は悪ではない。人は食べ、家を建て、物を所有し、他人に影響を与えなければ生きられない。問題となるのは、どこまで占めるかである。

 古いアンダークシャーハンの教説には、富を持つことそのものを罪とする考えはほとんどない。王も否定されず、土地の所有も、家族を持つことも、商売によって利益を得ることも認められた。しかし、持っているものを理由として他者が存在する余地まで奪うならば、その者は世界の秩序から外れ始める。

 この状態を、後世の信徒はしばしば「大きくなり過ぎる」と表現した。大きいことそのものが悪いのではない。大きな木の下にも草は生える。山が高くても、その麓には村を作ることができる。海が広くても岸は残されている。

 悪い大きさとは、他のものを自らの内部へ取り込み、それ以外であることを許さない大きさである。

 この考えから、アンダークシャーハン教において竜は特別な意味を持つようになった。

 初期の教説が既に竜を敵としていたかは明らかではない。レンダーク教そのものに、全ての竜を悪とする教義はなかった。また実際の竜にも性質の違いがあり、人を避けるものも、人の支配下に置かれるものも知られていた。

 しかし後のイクツドゥークでは、竜は「場所を返さないもの」の最も分かりやすい姿と考えられるようになった。

 一頭の竜が空を占めれば、人はその下を自由に行き来できなくなる。一頭の竜が谷に留まれば、そこに暮らしていた獣が消え、人も住めなくなることがある。巨大な魔力を持つ竜は周囲の魔力そのものを変え、その存在だけで土地を自らに従わせる場合さえある。したがって竜の問題は、竜が醜いからでも、神に呪われているからでもなかった。竜が、自らの存在する場所より多くの場所を占めるからである。

 後世の有名な教説では、これを「竜は空を飛ぶのではなく、空を己のものにする」と表現する。このため竜を討つことは、単なる獣の討伐以上の意味を持つこととなった。竜を殺せば、竜が占めていた土地が人へ返るというだけではない。そこに草が戻り、獣が戻り、道が通り、人が互いに異なる生活を営むことができるようになる。

 竜が占めていた場所を竜殺しが所有するのではない。世界へ返すのである。この違いは重要とされた。竜を倒した者が、その功績を理由に広大な土地を自らのものとし、人々に服従を求めるならば、その者は竜を殺しながら自ら竜に近づいている。

 後世には「竜を殺した者は竜になってはならない」という言葉が広く知られるようになった。

 それが初期から存在した格言であるかは疑われているが、アンダークシャーハン教の倫理をよく表している。

 王についても同じことが言われた。王がいることは悪ではない。王は争いを裁き、軍を動かし、国の外に対して一つの意思を示すことができる。しかし王が人々の仕事、信仰、婚姻、財産、言葉に至るまで己の意思に従わせようとすれば、王は国を治める者ではなく、国そのものになろうとしている。それは竜と同じである。アンダークシャーハンという名についても、王との関係から幾つもの解釈が生まれた。

 その古い語源は明らかではない。しかし後半のシャーハンを王を意味するシャーンと結び付け、「王の下にある教え」と読む者や、反対に「王を下に置く教え」と説明する者が現れた。

 教会はどちらも正式な語源とはしていない。それでも後者の説明はイクツドゥークで好まれた。王を貶めるという意味ではない。王にも上に置かれるものがあるという意味である。

 古い説教師の言葉として、人は王の下にある。王は法の下にある。法は世界の下にある。という三つの文が伝えられている。この言葉も実際に一人の人物が語ったものかは分からない。最後に「世界は何者の下にもない」と続ける伝承もあれば、「世界は聖なるものの内にある」とする伝承もある。

 この相違は、アンダークシャーハン教が神について一つの見解を強制しなかったこととも関係している。

 レンダーク教六星派に由来する信徒の中には、テノンスを創造に関わる神格として認める者がいた。別の者は世界の起源について知る必要はないとした。世界の背後に唯一の神が存在すると考える者も後の時代には現れた。

 いずれについても、アンダークシャーハン教会は長く決着を付けなかった。

 世界が誰によって作られたのかを知ることより、すでに存在する世界の中でどのように生きるかの方が重要だとされたからである。

 そのためアンダークシャーハン教は有神教であるとも、無神論的な宗教であるとも言われる。どちらも完全には正しくない。信徒に要求されるのは、創造者について同じ答えを持つことではない。自分以外のものが存在する場所を認めることである。この教えがいつ、後のイクツドゥーク王国と強く結び付いたのかも明確ではない。

 王国そのものは古代デンバクドゥルの諸王国ほど古いものではなく、アンダークシャーハン教も人々の救済直後から存在した宗教ではない。後にイクツドゥークとなる地域にすでに複数の集落や小国が存在していた時代に、レンダーク教の地方的な教説として徐々に形を整え、それが政治的統合の進行とともに広まったと見るのが自然である。

 やがて首都アブクズが宗教の中心となり、各地の教説や祭儀がそこへ集められた。しかしアブクズの教会がアンダークシャーハン教を作ったわけではない。すでに各地に存在していた教えを整理し、互いに大きく異なっていた言葉を、一つの宗教として扱える程度にまとめたのである。

 その後、イクツドゥークでは竜の排除が国家そのものの方針となる。現在では国境の内側へ侵入した竜は原則として駆逐され、竜討伐を専門とする冒険者さえ存在する。しかしその政策の根にある教えは、竜についてだけ語るものではない。王にも場所がある。貧しい者にも場所がある。信じる者にも、異なることを信じる者にも場所がある。人間にも場所があり、獣にも、森にも、水にも場所がある。

 そして、それらの全てを一つのものが覆い尽くそうとする時、その大きさは許されない。アンダークシャーハン教が竜に見いだしたのは、世界の外から来た悪ではなかった。この世界の中にあるものが、自らを世界そのものにしようとする危険であった。


イクツドゥーク誌 第二章 竜と場所を返さないもの


 アンダークシャーハン教について最もよく知られているのは、竜を忌む宗教であるということである。

 現在のイクツドゥーク王国では、国境の内側へ侵入した竜は原則として駆逐される。首都アブクズには竜討伐に関する記録が集められ、冒険者ギルドにも竜を専門に追う者がいる。このため外国人の中には、アンダークシャーハン教を竜を悪魔とみなす宗教であると考える者もいる。

 しかし教義上、竜は悪の創造物ではない。竜もまた世界の中に生じた存在である。それが神によって作られたのか、魔力の作用によって生じたのか、あるいは世界そのものの働きによって生まれたのかについて、アンダークシャーハン教は統一した説明を持たない。竜が存在することそのものを誤りとはしない。

 問題は、竜がどのように存在するかにある。アンダークシャーハン教の古い説教では、存在するものにはそれぞれ「そのものがあるための場所」があるとされた。

 一人の人間には一人の身体があり、一つの家にはその家の土地があり、一群の獣には餌を得る野がある。互いの場所は重なり合うこともあり、一つの川を幾つもの村が使うように、同じものを複数の存在が分け合うこともできる。

 世界が存続するのは、この重なりが完全な奪い合いにならないためである。竜はこの均衡を崩しやすい。

 一頭で広い空域を占め、近づく者を退け、食料を奪い、巣の周囲から他の大型動物を排除する。強い個体であれば、その魔力そのものが周辺へ作用する。

 そして何より竜は、自らが必要とする以上のものを自らの側へ引き寄せる存在として理解された。

 この状態を表す古い宗教語は現在まで正確に読めていない。そのため現代の説教師は、しばしば「場所を返さない」と訳して説明する。

 竜は空を使うのではなく、空を返さない。

 谷に住むのではなく、谷を返さない。

 獲物を食べるだけでなく、他のものが食べるはずであった獲物まで自らの支配の中へ置く。

 こうした理解によって、実在する竜と教義上の「竜」との間には少しずつ違いが生じた。

 実際の竜の全てが同じように振る舞うわけではない。長く一つの山奥に留まり、人間の生活圏へほとんど影響を与えない個体も知られている。人間に馴らされた竜や、一定の共生関係を結んだ例についても古い記録がある。

 このため初期のアンダークシャーハン教徒の間では、害を与えない竜まで殺すべきかについて論争があったとされる。

 一方は、問題となるのは行為であって種ではないとした。場所を奪わない竜であれば、それを殺す必要はない。

 もう一方は、竜はその巨大な力そのものによって周囲の自由を狭めるため、現時点で害がなくとも、人の生活する土地の近くへ留めるべきではないと考えた。後者の見解がイクツドゥークでは強くなった。

 その結果、現在の王国では竜が国境内部へ入れば、個体ごとの性質を長く観察するより先に排除することが原則となっている。

 これは「全ての竜は邪悪である」という教義とは少し異なる。竜が存在してよい場所と、人が国家として共同生活を営む場所を分けるのである。

 したがってアンダークシャーハン教徒の中にも、遠方の荒野や人の住まない山地にいる竜まで全て滅ぼすべきだとは考えない者が多い。世界から竜そのものを消し去ろうとすれば、それもまた一つの存在が世界全体を自らの都合に合わせようとする行為になり得るからである。この点については、現在でも教会内部に完全な一致はない。

 竜の存在を可能な限り減らすことが人々の安全に繋がると考える者もいる。一方で、人間が住まない土地まで人間の判断によって整理しようとすることは、アンダークシャーハン教本来の教えに反するとする者もいる。

 こうした議論から、「竜」という語は人間についても使われるようになった。

 一人の王が全ての土地を自分のものとする。一人の商人が市場を独占し、他の者が商う余地をなくす。一人の魔術師が結界の中へ多数の人々を閉じ込め、その意思を自分の意思に置き換える。

 このような者は「人の形をした竜」と呼ばれることがある。もちろん、それだけで実際の竜と同じ存在になったと考えられるわけではない。これは宗教的な比喩である。しかしアンダークシャーハン教では重要な比喩であり、場合によっては単に暴君や強欲者と呼ぶより厳しい非難となる。

 特に魔王は、この竜の比喩によって説明されやすかった。魔王は巨大な固有結界を持ち、その中へ人々を取り込み、人の生や死を自らの存続のために利用した。世界の一部分に存在する者でありながら、その内部に小さな世界を作り、そこにあるもの全てを自分のものとしようとした。

 アンダークシャーハン教から見れば、これは竜的な存在の極端な形である。そのため実際の竜を討つことと魔王に抗うことは、同じ教義によって説明できた。しかし、それならば竜を討つ者自身はどうなのかという問題が生じる。

 竜殺しは名声を得る。王から報酬を受けることもある。民衆から英雄として迎えられ、後に高い地位へ就くこともある。それ自体は禁じられていない。

 アンダークシャーハン教は、危険を引き受けた者が報酬を得ることを不当とはしない。ただし、竜を倒した功績によって竜が占めていたものを自分のものにすることは警戒された。古い教会法には、竜を討った者がその巣の周辺を当然に自らの領地とすることを否定した規定がある。

 竜が死んだからといって、その谷が竜殺しのものになるわけではない。道が再び開かれたなら、そこを通る者のための道になる。牧草地が戻ったなら、誰が利用するかを共同体が決める。水源が解放されたなら、一人の英雄が全てを囲うべきではない。

 こうして「竜から取り返したものを誰のものとするか」は、宗教上重要な問題になった。竜の死体についても同様である。竜の角、骨、皮、血、体内に蓄えられていた金属などは大きな価値を持つ場合がある。これらを全て捨てるべきだという教えはない。むしろ利用できるものを無駄にすることは好まれなかった。ただし竜を討った者が死体全体を私物化することについては、古くから批判がある。

 現在では討伐者の取り分、王国やギルドの取り分、土地を管理する共同体へ渡すものなどが慣習や契約によって定められることが多い。宗教的には、これも「返す」ことの一部と説明される。竜の身体さえ、一人のものとして閉じておかないのである。

 この教えから生まれた最も有名な言葉が、「竜を殺した者は、竜になってはならない」である。子供にも教えられる言葉であり、現在では宗教を熱心に信じない者も用いる。成功した商人に向けて冗談として言われることもあれば、政治的な演説で権力者を非難するために使われることもある。

 しかし本来、この言葉は成功そのものを戒めるものではない。強くなるなという意味でもない。大きな仕事をした者は、大きなものを持つことになる。問題は、その大きさによって他のものが存在する場所まで失わせることである。アンダークシャーハン教にとって理想的な強者とは、小さくなる者ではない。自分が大きくなった後にも、その隣に他者が立てる場所を残す者である。

 そのため竜は、単なる宗教的な敵ではなかった。空に実在する獣であると同時に、人間が自らの力をどのように扱うべきかを示す尺度でもあった。そしてイクツドゥークが竜を国土から退け続ける限り、その問いは竜を討つ側にも向けられ続けることになる。


イクツドゥーク誌 第三章 王は世界ではない


 アンダークシャーハン教は、王を否定しない。むしろ王は必要とされる。国の外に対して一つの意思を示し、争いを裁き、軍を動かし、法を公布し、災害や竜の侵入に際して人々をまとめる者がいなければ、大きな共同体を維持することは難しい。しかし王は、国そのものではない。

 この区別はアンダークシャーハン教において極めて重要である。一人の王が国を治めることと、一人の王が国に存在する全てのものを自らの意思の延長とすることは異なる。前者は統治であり、後者は占有である。王が法を定めることは認められる。しかし法を自らだけに適用しないならば、その法は王の言葉に過ぎない。王が軍を動かすことは認められる。しかし軍を自分個人の敵を除くために用いれば、その軍は国のものではなくなる。王が土地を管理することも認められる。しかし全ての土地が王の所有物であり、人々はそこに王の許しによって住んでいるに過ぎないと考え始めれば、王は竜に近づく。この教説から、イクツドゥークでは王権を弱く保つことそのものが一つの政治的な徳として理解されるようになった。

 現在の王は、重要な祭儀に参加し、国の名を担い、条約や大きな法の公布に関わる。しかし日常の統治を直接行うことは少ない。この状態がいつ成立したのかについては明確ではない。王権が徐々に衰えた後、アンダークシャーハン教がそれを正しい形として説明したとする見方もある。反対に、教会の影響によって王が自ら権限を手放していったとする伝承もある。おそらく実際には、複数の事情が重なっている。

 それでも現在のイクツドゥークでは、王が強大な実権を持たないことは必ずしも王の失敗とは考えられない。むしろ王は、国の中心にいながら国の全てを所有しない者として存在する。王冠を持ちながら、その王冠によって他の全てのものを覆わないことが求められるのである。

 このため王の即位儀礼には、王が何かを受け取るだけでなく、何かを受け取らないことを示すものがある。

 現在広く知られている儀礼では、王の前に土、水、金貨、剣、法典が置かれる。王は剣と法典には触れるが、土、水、金貨には触れない。これらの物が国に属しながら、王個人の所有物ではないことを示すと説明されている。この儀礼が古くから存在したかについては疑問がある。

 現在の形が整ったのは比較的新しい時代であり、それ以前には地域ごとに異なる即位儀礼が存在したとされる。しかし「王は全てを受け取らない」という考えそのものは、アンダークシャーハン教の王権論をよく表している。王に代わって実際の政治に大きな影響を持つのが魔術師連盟である。

 イクツドゥークの政治について外部から最も多く批判されるのも、この点である。王には一人へ権力を集めてはならないと教えながら、魔術師たちがその権力を事実上引き受けているのではないか。

 王が竜になることを防いだ結果、多数の魔術師からなる一頭の竜を作っただけではないか。この批判は、イクツドゥーク内部にも古くから存在する。

 アンダークシャーハン教会自身も、魔術師連盟を無条件に正しいものとはしていない。

 魔術師には、長い寿命と知識がある。地脈、結界、暗断裂、竜、魔物などについて、一般の役人より深い知識を持つ者も多い。特に竜の侵入に対処する国家にとって、魔術師の助言なしに政策を決めることは難しい。そのため彼らが政治に深く関わること自体は、必要なものと説明される。問題は、その知識が他の者の判断する場所を奪う時に生じる。魔術師が「自分たちには分かるが、お前たちには分からない」として全てを決めるならば、その知恵は他者を支えるものではなく、他者を消すものになる。このことから、イクツドゥークでは「知恵にも場所を与え、知恵にも場所を与え過ぎない」という言葉が知られている。

 実際には魔術師連盟の力は強い。竜の侵入が確認されれば、王国軍より先に魔術師と冒険者ギルドが動く場合もある。危険な結界や魔物に関する政策について、王宮が連盟の判断を覆すことは少ない。また教育、記録、魔法に関する規則の一部も魔術師連盟の影響下にある。この状態を宗教的理想からの逸脱と見る者もいれば、複数の魔術師が互いに監視し合うため一人の王よりは安全であると考える者もいる。

 後者は、権力が複数に分かれていること自体に意味を見いだす。一人の魔術師が間違っても、別の魔術師が反対できる。一つの会議が決定しても、教会が批判できる。王が異議を唱えることもできる。冒険者ギルドが現場の事情を理由に従わないことすらある。秩序が完全に一つにならないことを、弱さではなく安全と見るのである。

 アンダークシャーハン教会もまた、国家を直接支配することを原則として避けている。

 教会が王を任命するわけではない。国家の全ての法を聖典から導こうとすることもない。聖職者が裁判官となる場合はあるが、それは教会の権威によって全てを裁くというより、地域社会の一員として知識を求められるためである。教会の役割は、誰かが大きくなり過ぎていないかを言葉にすることにある、と説明されることがある。王が大きくなり過ぎる。魔術師連盟が大きくなり過ぎる。商人の組合が大きくなり過ぎる。冒険者ギルドが大きくなり過ぎる。時には教会自身が大きくなり過ぎる。その時に「場所を残せ」と言うことが、教会の役割であるという。

 このため教会内部には、自らの宗教を国中へ強制することに慎重な伝統がある。アンダークシャーハン教はイクツドゥーク固有の宗教として非常に強い影響を持つ。しかし全ての住民が同じ仕方で信じているわけではない。レンダーク教の別派を信じる者もいれば、他の宗教を持つ者もいる。神の存在について異なる理解を持つアンダークシャーハン教徒さえいる。教会に通わず、竜についての倫理だけを日常の言葉として受け入れている者も少なくない。これを教義の弱さと批判する者もいる。

 一方で、宗教が全ての人間の思考を同じ形へ変えようとすれば、その宗教自身が竜になるという反論もある。この問題は、アンダークシャーハン教が最も解決しにくい問題の一つである。どこまで教えることができるのか。どこから強制になるのか。誤った教えを放置することは他者へ場所を与えることなのか、それとも害を受ける者の場所を奪うことなのか。

 現在の教会にも統一した答えはない。法についても同じである。人を殺すこと、盗むこと、土地を奪うこと、詐欺によって財産を集めることなどは当然禁じられる。

 しかし法の目的は、全ての人を正しい者にすることではない。人が互いを押し退け、他者が生きられない状態を作ることを防ぐことにあると説明される。

 このため内心の罪について、世俗法が深く立ち入ることには慎重である。人が何を考えているかは、その人自身の場所に属する。しかし考えが行為となり、他者の生活を壊すならば、国家は介入する。この区別は必ずしも明瞭ではない。

 特に魔術によって人の心へ作用できる世界では、どこからが行為で、どこまでが内面なのかを分けることが難しい。ナナキのように、人々の行動を広く動かす力については、アンダークシャーハン教の神学者が古くから強い警戒を示してきた。一人の者の意思が、多数の者の意思の場所へ入り込むからである。

 たとえ結果として良い行為をさせる場合でも、それが常態となれば人々は自ら判断する場所を失う。

 そのため非常時の避難や竜討伐などに限定した使用を認める立場と、可能な限り禁止すべきだとする立場が現在も争っている。

 アンダークシャーハン教では、良い結果だけでは行為の正しさを決められない。千人を救ったとしても、そのために千人の意思を永久に奪ったならば、それを単純に善とは呼べない。一つの町を豊かにしても、周囲の村が生きられなくなったならば、その繁栄には問題がある。王国を強くしても、王国の外にある全てを敵と見なすならば、その強さは竜的である。この考えは、イクツドゥークが竜を激しく排除する国家であることと、時に緊張する。竜を排除するためならどこまで許されるのか。竜を飼う国に圧力を加えてよいのか。国境の外にいる竜まで討つべきか。竜と共生する人々を誤った者として扱ってよいのか。

 国家の実際の政策は、常に宗教の理想通りであるわけではない。強硬な王や魔術師は、竜がいるだけで周辺諸国へ干渉することを正当化したこともある。そのたびに教会内から、「竜を追う者が国境を越えて他者の場所を奪ってはならない」という批判が起こった。

 アンダークシャーハン教は、国家に都合のよい宗教であるだけではない。国家の行動を正当化する言葉を与えると同時に、その国家へ同じ基準を向ける。

王は竜ではない。魔術師も竜ではない。教会も竜ではない。しかし、竜でないことは一度認められれば永遠に保証される身分ではない。

 自分以外のものが存在する場所を奪い始めた時、誰であっても竜に近づく。

 イクツドゥークでは、王が王であり続けるためにも、自分が国そのものではないことを忘れてはならないとされる。


イクツドゥーク誌 第四章 場所を分け合う生活


 アンダークシャーハン教には、一日の決まった時刻に全ての信徒が同じ言葉を唱えるような習慣はない。

 首都アブクズには大会堂があり、地方にも集会のための建物が置かれている。しかし信徒がそこへ行かなければ信仰者ではないと考えられることもない。祭礼の日を除けば、会堂へ頻繁に通う者もいれば、婚姻や葬送の時にしか足を運ばない者もいる。

 これは信仰が弱いからではなく、教会が信徒の生活全体を占めることを警戒してきたためである、と説明される。人には働く時間がある。家族と過ごす時間がある。一人で考える時間もある。宗教がそれらを全て自らのものとするならば、会堂もまた場所を返さないものになる。そのためアンダークシャーハン教の礼拝は、比較的短いものが多い。

 聖職者が古い教説を読み、集まった者の一人または数人が最近起きた出来事について話す。続いて、そこにいる者がそれぞれ短く言葉を述べる場合がある。必ず全員が発言するわけではない。一人の説教師だけが長く語り続けることを嫌う会堂もある。話す者がいるなら、聞く者にもまた考える場所が必要だからである。会堂内部の造りにも、その考えが現れているとされる。

 アブクズの古い会堂には中央に巨大な祭壇を置かず、壁に沿って人が座れる場所を作ったものが多い。礼拝の中心となる場所はあるが、それが建物全体を支配するようには作られない。これは後世の宗教的解釈であり、単に古い集会所の形が残っただけだとする見方もある。

 アンダークシャーハン教を象徴するものとして最もよく用いられるのは、完全に閉じていない円である。円の一部だけが切れている。世界は一つでありながら、閉じ切ってはならないという意味が後から与えられた。別の説明では、出て行く者の道であり、入ってくる者の道でもあるという。この印は教会だけでなく、家の入口や商人の印、墓石にも使われることがある。

 ただし全てが宗教的な意味を持つとは限らない。長く使われたため、現在では単なるイクツドゥークの文様として扱われることも多い。食事の前に必ず祈るという決まりもない。しかし複数人で食卓を囲む時、最後の一皿を一人で取り切らず、少量を残す習慣がある地域がある。これを「残し」と呼ぶ。残された食事を捨てるわけではなく、後で誰かが食べてもよいし、家畜に与えてもよい。重要なのは、最初に食べた者が食卓の全てを自分たちのものとしなかったことにあるという。宗教的な意味を意識せず行う家庭も多い。

 商売にも似た習慣がある。アンダークシャーハン教は利益を得ることを否定しない。大きな店を持つことも、大量の商品を扱うことも、それ自体では問題とされない。しかし一つの商人が市場の全てを買い取り、他の商人が同じ品を扱えないようにすることは強く嫌われる。そのためイクツドゥークの市場では、古くから特定の品について一人の商人が全ての販売場所を占めないようにする取り決めが存在した。

 現在では宗教的戒律というより商法や慣習として扱われているものもある。婚姻についても、アンダークシャーハン教は夫婦が互いを所有するという考えを好まない。二人は同じ家に暮らし、財産を共有し、子を育てることができる。しかし相手の考えや時間まで自らのものになるわけではない。古い婚姻の言葉には、「あなたの場所の隣に、私の場所を置く」という表現が知られている。二つを一つにするのではなく、二つが隣り合って生活するという理解である。実際の家庭生活が常にこの理想に従っているわけではない。他国と同じように夫婦の争いもあり、財産を巡る争いもある。しかし一方の配偶者がもう一方の交友、仕事、財産、移動を過度に制限する場合、「家の中で竜になっている」と非難されることがある。これはかなり強い言葉である。

 子供に対しても同様の教えがある。親は子供を育て、教える責任を持つ。幼い子供が危険な行動をすれば止める。しかし子供が成長しても全ての決定を親が行い続けるならば、その親は子供の場所を返していないとされる。成人を示す儀礼では、親から子へ何かを与えるより、子供がそれまで家で使っていた物の一つを自ら選び、家に残して出ていく習慣を持つ地方もある。全てを持っていかない。しかし全てを家に置いていくわけでもない。自分のものを選び、自分の場所を作るのである。

 死についてアンダークシャーハン教は、他の事柄ほど明確な教義を持たない。死者の魂がどこへ行くのかについては複数の説がある。レンダーク教楽派の影響を受け、死後には苦しみがなくなると考える者もいる。大車輪群に由来する考えから、何らかの形で再び存在すると信じる者もいる。死後は深い眠りに入るとする者もいる。そして死後について何も知ることはできないと考える信徒も少なくない。教会が比較的共通して教えるのは、死者が生者の場所を占め続けてはならないということである。これは死者を忘れろという意味ではない。名を記し、墓を作り、思い出すことは認められる。しかし死者の言葉を理由として、生きている者の全ての選択を縛るべきではない。特に王や有名な聖職者について、その生前の言葉を永遠の命令として扱うことには慎重である。人は死ねば、自分が占めていた場所の多くを生者へ返す。

 葬儀ではこのことを示すため、死者の所有物を幾つかに分ける習慣がある。家族が受け継ぐもの。友人へ渡すもの。共同体へ返すもの。処分するもの。全てを墓へ入れて死者のものとして閉じることは少ない。墓そのものも大き過ぎるものは好まれない。死者を尊敬していても、生きている者が暮らす土地まで墓が占めてはならないからである。ただし王墓や歴史的な人物の墓には大きなものもあり、この点でも教義と現実は必ずしも一致しない。

 アンダークシャーハン教の祭日の中で特に重要なのが、「返地の日」と呼ばれる祭りである。現在の形が成立した年代は不明だが、元来は収穫後の土地に関わる地方祭であったと考えられている。この日には、一年間利用した土地、水、道、共同の施設について、それを翌年も同じ者が利用し続けるべきかを確認する。実際には大部分がそのまま継続される。しかし長く使われていない畑や倉庫、共同作業場などがあれば、新しく必要とする者へ渡すことがある。宗教祭でありながら、土地管理の会議に近い地方もある。首都アブクズではより象徴的な祭りとなり、王が王宮の門を一つ開放し、一定の時間、誰でもその前の広場を通れるようにする。王が自ら国の場所を閉ざしていないことを示す儀礼とされる。

 より有名なのは竜討伐後の儀礼である。竜が国土へ入り、冒険者や魔法使いによって討たれた場合、その場所が安全になれば「返還」が宣言される。

 これは竜を倒した時ではなく、人が再びその土地を利用できると確認された時に行われる。竜が死んでも魔力の影響が残り、土地が危険である場合には返還は行われない。

 そのため討伐と返還の間に何年も空くことがある。返還の日には、討伐者の名が読み上げられる。しかしその後には土地に以前住んでいた者、そこで仕事を再開する者、道を修復した者などの名も続けて読まれる。一人の竜殺しだけを英雄として祭り上げないためだと説明されている。討伐者自身が最後に、「これは私の地ではない」と述べる形式も知られている。実際には全ての討伐で行われるわけではなく、宗教的意味を持たない冒険者が言うことを拒む場合もある。そのことで罰せられることはない。

 しかしイクツドゥーク出身の竜討伐者の多くは、この言葉を一種の職業的な誇りとして受け入れている。

 アンダークシャーハン教には聖人に近い人物も存在するが、その扱いは控えめである。偉大な説教師、竜を討った者、貧者へ財産を分けた者などの記憶は残される。しかし一人の人物を完全な模範として扱うことには警戒がある。その人物が生きた場所と時代には適切であったことが、別の時代にもそのまま適切とは限らないからである。最もよい人間であっても、世界全体を一人で表すことはできない。この考えは教典の扱いにも影響している。

 アンダークシャーハン教には教説を集めた書物があるが、一つの文章だけを全ての問題の答えとして用いることは避けられる。互いに少し異なる言葉を並べて残すことも多い。後世の学者がどちらかを誤りとして削除しようとすると、「二つあるなら二つ置け」と反対されたという話も伝わる。矛盾そのものが聖なるわけではない。しかし人間が世界を見る場所は一つではない以上、異なる記録が残ることには意味があると考えられた。こうしたアンダークシャーハン教の倫理は、現在のイクツドゥーク人全てが意識的に信じているものではない。市場で商品を分けて売る商人が宗教的理由を考えていないこともある。最後の一皿を少し残す者が、単に礼儀だと思っている場合もある。王の力が小さいことも、信仰より政治の歴史によって生じた部分が大きい。それでも、そのような習慣を説明しようとする時、人々はしばしば同じ言葉へ戻る。場所を残す。場所を返す。大きくなり過ぎない。竜にならない。

 イクツドゥークでは、宗教は人々に世界の全てを説明するものではない。世界がなぜ始まったのか、死後に何があるのか、神がどのような存在であるのかについて、信徒同士で異なる答えを持つことができる。しかし今ここに自分以外の何かが存在しているならば、その存在を完全に自らの内へ取り込んではならない。その一点において、アンダークシャーハン教は比較的明瞭である。イクツドゥークが竜を国土から退けるのも、その竜が世界に存在する資格を持たないからではない。人々が暮らす場所の全てを、竜一頭の場所にしてはならないからである。そして同じ理由によって、人間もまた世界の全てを人間だけの場所にしてはならないとされる。

 アンダークシャーハン教が最後に警戒するのは、竜そのものではない。世界の一部分であるものが、世界全体になろうとすることである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。