表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/44

アーナンダに恋する乙女

 さて、アーナンダのことである。侍者となってからの彼の日常は、師の身の回りの世話をし、托鉢に付き従い、法話の場に控え、来訪者を取り次ぎ、なおかつ(おのれ)の修行を行うといった具合であった。けれどもその日は、パセーナディ王の招待で宮殿に赴いた師と多くの弟子達とは別に、アーナンダのみが他家の特別の招きを受けていたので、一人シュラーヴァスティーへ入ったのだった。

 そして彼は供養を受けての帰り道、喉の渇きを覚え、大きな池のほとりへとやってきた。そこで清水を汲むチャンダーラ[旃陀(せんだ)()]族の若い娘を見かけ、アーナンダは水を乞うた。

「尊者よ、(わたくし)は卑しい素性の者であれば……」

 黒い巻き毛を背に垂らし、大きな瞳を見開いたその愛らしい娘は、ためらいがちに答えた。

(この出家の方は(わたくし)をチャンダーラの者と知っておいでなのか。卑しんで我らには誰も触れぬものを)

 彼女は、いぶかしく思う。

(いも)よ、私は出家。心に貴賎上下の差別はつけぬ」

 と、重ねて乞われ、娘は澄んだ水を鉢に汲み、出家に捧げた。

 ためらいもせず、自然な態度で水を飲んだアーナンダはすぐにそこを立ち去ったのだが、彼の気高い姿と優しい言葉は深く娘の心に刻みつけられた。

 彼女は家へ帰り、母親に云った。

(わたくし)はアーナンダ尊者にお会いしました。先ほどの若く美しい方は、きっと噂に聞くあの方でしょう。どうか、尊者をこの家へ招いてください」

 薄暗い家の中でうずくまり、食事の支度をしていた母親は驚いて振り返った。そこには恋をして夢見心地な眼をした我が()が立っていた。

「娘よ」

 彼女は立ち上がり、近づいていった。

「……我が家は沙門の方々をお招きすることが出来ぬのです」

「では、母さまのお力でもって」

 母親は術者であった。

「娘よ、(わたし)呪術(まじない)も、欲を離れた者と死人には施すことが出来ませぬ。まして尊者の師匠ゴータマは徳が高くてパセーナディ王の敬いたもうところであるから、もし今、呪術をもって尊者をお連れ申せば、我がチャンダーラの仲間は皆殺しにされるかも知れぬのです」

 母親に説得されても、思いつめた恋心は止まるものではない。

「それでは……もう死ぬよりほかはありません」

 娘は泣いた。

 困り果てた母親は、そこでついに娘の願いをかなえようと決心した。

 母親は家の中で地に牛糞(ごふん)を塗り、()()を積んで火をつけた。そして燃え上がる炎の中へ百八枚の蓮華を投げて、一葉(いちよう)ごとに天地の神々へ祈り、

「アーナンダ尊者をここに来たらしめよ」

 と、願った。

 同時刻、祇園精舎に向かって歩いていたアーナンダは突然、心乱れて道を(たが)え、ふらふらと娘の家へとやってきた。

「天に祈りが通じた!」

 香を焚き、花をまいて喜ぶ母子に迎えられ、アーナンダは美しい(しとね)に坐った。しかしそのとき、はっと気づき、夢から()めたような面持ちをして、次には恐れが全身をかけ巡った。

「世尊、お助けください」

 彼が叫ぶと、体が自由になった。

 アーナンダは家を走り出た。背後で娘が呼び止める声も耳に入らず、そして彼は精舎まで駆け戻ったのであった。

「あの方は去ってしまった……」

 娘は一夜を泣き明かした。

 けれども翌日、アーナンダが街へ托鉢に出ると、娘が新しい衣を着、(はな)(かずら)をつけ、瓔珞(ようらく)をまとって彼を待ち受けていた。さながら燈火に迷う夏虫のように彼女はアーナンダの後を追い、彼が止まれば自らも歩みを止め、城外に出て精舎に帰っても娘は離れようとしない。

(困った……)

 彼は浅ましく恥ずかしい思いをしたが、どうすることも出来なかった。

 幼い頃に出家し、僧伽の中で成人したアーナンダには、自分に恋する娘の出現など初めてのことだった。ましてや、求愛する女性をあしらう方法(すべ)など、知るはずもなかった。

そのためアーナンダは世尊のもとへ行き、助けを()うた。

「悩むことはない」

 と世尊は答え、アーナンダの後ろに控えている娘へ語りかけた。

「汝がもしアーナンダの妻となりたいのならば、父母の許しを受けてきなさい」

(なんということをおっしゃるのだ)

 驚きのあまりアーナンダの背筋を冷や汗が流れる。

(しかし、我が師には何かお考えがあるに違いない)

 アーナンダが青ざめる一方、娘は喜んですぐさま家へ戻り、両親を伴って再び精舎へとやってきた。

「では娘よ、アーナンダの妻となるには、まず出家せねばならぬ」

 今度は娘の父母が驚く番であった。けれども彼らはすぐに、

(尊い聖者(ひじり)のおおせられることであるから)

 と、思い直し、すべてを仏陀にまかせることにした。

 娘は神妙な面持ちで世尊の教えを受け、その美しい黒髪は落とされて彼女は法衣(ころも)を身にまとった。

 娘の心がようやく鎮まったのを見て、世尊は云う。

「娘よ、欲はもろもろの(くるしみ)の集まる所で、その味はいたって少なく、その過ちははなはだ多い。例えば(ともしび)に寄る蛾のように、愚かな凡夫は欲の(ほのお)に身を投げようとする。智者はこれと異なり、欲より遠ざかり愛欲の思いを起こすことはない」

 と、さまざまに教え諭せば、素直な娘は白氈(びゃくせん)が色に染まるように、その心は柔らかく(さわ)りも除かれ、()()しい天地に蘇ったかのような表情となった。そして彼女は以後、マータンガー(摩登伽)比丘尼と呼ばれたのであった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ