比丘たちの反応
バラモンたちが女を男より劣った存在としており、また世の人々もそのように見なしていたため、僧伽の内でも比丘尼たちを軽んずる男性の修行者は多く、それは高弟の中にもいた。
ナンダカがその一人であった。
王寺が造られた頃、上座の弟子たちは順番に尼たちへ教誨をすることになっていた。しかし、ナンダカはそれを好まないでいた。
このことをアーナンダから聞いて知った世尊は、彼を呼んで法話をするよう言いつけた。
ナンダカは命を受け、翌朝シュラーヴァスティーに托鉢し、食後一人の弟子を連れて王寺へ出かけた。
比丘尼たちはナンダカが来るのを見て座を設け、洗足の水を用意した。
ナンダカは足を洗って設けの座につき、尼たちへ云う。
「姉妹らよ、質問の心がけを話そう。質問をされて、知っていることは知ると云い、知らないことは知らないと云わねばならぬ。またもし、そこに疑いがあるならば、『これは何でありますか』、『この義はどういうことでありますか』と、聞かねばならない」
これを聞いて比丘尼たちはナンダカが自由に質問させてくれるのを大いに喜んだ。
「姉妹らよ、眼は常住か無常か」
「無常であります」
「無常のものは苦か楽か」
「苦であります」
「無常であり、苦であり壊れる法を、『これは私のものである。これは私である。これは私の自我である』と見ることが出来るか」
「大徳よ、それはできません。耳、鼻、舌、身、意についても同様にできません。何故ならば、私共はさきに正しい智慧によって、これらの六つの感官は無常であると、あるがままに見ているからです」
次にナンダカは、色、声、香、味、触、法の六つの感官の対象や、眼、耳、鼻、舌、身、意の上に働く六つの識について、同じ事を尋ねて同じ答えを得、云う。
「よろしい。姉妹らよ、これはこの教えの弟子によって正しい智慧で、あるがままに見られたのである。姉妹らよ、たとえば燃えている油燈についても、油も無常の変壊をするものであり、芯も炎も光も無常の変壊をするものである。もし人あって油と芯と炎とは無常であるが、光は常住に変わらぬものであると云うならば、それは正しい言い方であろうか」
「正しくはありません。油と芯と炎が無常ならば、光が無常であることは申すまでもありません」
「姉妹らよ、ならば無常であるところの六つの感官から生まれる苦、楽、不苦不楽の感受は常住であるというならば、その言葉は正しいであろうか」
「大徳よ、正しくはありません。それによって生まれたものは、それが無くなれば自然に無くなるからです」
「素晴らしいことだ、姉妹らよ。実にその通りである。次にたとえば樹の根や枝や葉が無常であるのに、その樹の影のみは常住であると云うならば、それは正しい言い方であろうか」
「大徳よ、正しくはありません。根と幹と枝と葉とが無常であるから、その影が無常であることは申すまでもありません」
「姉妹らよ、ならばその、無常であるところの六つの感官の対象から生まれる苦、楽、不苦不楽の感受は常住であると云うならば、その言葉は正しいであろうか」
「大徳よ、正しくはありません。それによって生まれたものは、それが無くなれば自然に無くなるからです」
「善いかな。姉妹らよ、実にその通りである。次に例えば、巧みな牛殺しが牛を殺して、鋭い牛刀で中の肉と外の皮とを痛めずに裂き分け、内部の膜や筋や腱を切り裂き、肉を剥いで外の皮でその牛を包んでこのように云う。この牛はもとの通り、この皮は離れていないと、これは正しい言い方であろうか」
「大徳よ、正しくはありません。牛と皮とは離れております」
「姉妹らよ、この喩は義を知らせるために説いたのである。中の肉というのは内なる六官のこと、外の皮というのは外の六境のこと、中の膜、筋、腱というのは貪欲、鋭い牛刀というのは心のうちの煩悩を断ち切る智慧のことである。姉妹らよ、正念、択法、精進、喜、軽安、定、捨の七つの覚支を修めるならば、煩悩を滅ぼして感情と理性の解脱をこの現世においてあらわすことができる」
ナンダカはこのように比丘尼たちを諭し、王寺を後にした。
マハーパジャパティをはじめとする五百人の尼たちはナンダカの教えを喜び、座を立って祇園精舎の師のもとへ行き、感謝の言葉を申し述べた。
ところが世尊は彼女たちが去ったのち、弟子たちに語る。
「弟子等よ、十四日の布薩の夜には、誰しも今日の月が欠けているか満ちているかについて惑うものはいない。月は欠けているのである。ちょうどそのように、ナンダカの教誨を受けて尼たちは喜んでいるが、思惟が円かになっていない。」
そこで世尊は明日もまた比丘尼たちを教えるよう、ナンダカにいいつけた。
(我が師は、私に何をお示しになろうとするのか……)
彼は考え込んだ。師の行為に、無意味なものは一つもない。
そしてナンダカは翌日もシュラーヴァスティーで托鉢し、そののち王寺へ赴いて比丘尼たちに質問をさせた。今度はより注意深く、謙虚に受け答えをした。
彼の教誨を受け、尼たちはまた前日と同じように世尊のもとへ御礼を云いに行った。
彼女たちが帰ったあと、世尊は再び弟子たちに云う。
「弟子等よ、十五日の布薩の夜には、誰しも今日の月が欠けているか、満ちているかについて惑うものはない。月は満ちているのである。ちょうどそのように、ナンダカの教えを受けて尼たちは喜びかつその思惟は円かになっておる。この五百の尼の最後のものでも、必ず覚を得ると定まった信心の退がぬ位に入っておる」
まどかになったのは比丘尼たちの思惟だけではなかった。ナンダカの精神もまた同様なのであった。
比丘尼たちの存在を足手まといと思っている男性の修行者たちが多くいる一方、釈迦牟尼世尊が危惧したように尼たちと馴れ合う弟子も出てきた。
モーリヤパグナという比丘は、尼たちと親しく行き来し、少しでも比丘尼の悪口を言う者があると大いに怒って争いを引き起こすという有様だった。また比丘尼たちの方でも、彼の悪口を言うと同じように腹を立てた。
世尊はこれを聞いてパグナを呼び寄せ、事実かどうかを確かめてから云った。
「パグナよ、汝は信仰によって、出家したのではないのか」
「世尊、仰せの通りであります」
「パグナよ、その汝にとって、比丘尼たちと親しくなり過ぎるのは醜いことではないか。それゆえ、だれが汝の前で比丘尼たちの悪口を云ったとしても、汝は家庭にとらわれている者の持つような考え方を捨てねばならない。『私の心は変わらぬ。けわしい言葉は私の口から漏れぬ。同情と愛憐とをもって、慈しみの心に住まうであろう。密かに怒りを抱くということもいたすまい』と、学ばねばならぬ。パグナよ、またもし誰かが汝の前でそれらの比丘尼たちを手や土塊や棒や剣をもって打っても、汝は家庭にとらわれる者の持つような考え方を捨てねばならぬ。汝自身が悪口を云われ、汝自身が打たれたときでも、やはり同様でなければならぬ」
モーリヤパグナを諭した世尊は、続いて弟子等を顧みて云う。
「弟子等よ、あるとき私は弟子達の心が善く調っていたのを見て、『弟子等よ、私は日にただ一度の食を摂っているために、健やかに快い生活をしているが、汝等もこのように一日に一食を摂り、健やかに快い生活を営めよ』と命けたことがある。しかし弟子等よ、この教令の必要はなかった。実はただ正念を起こしておりさえすれば善いのである。例えば平らな道に、良く馴らされた馬を仕立てて巧みな御者が御すれば、鞭の必要はなく思う所へ何処へでも行かしめることが出来るようなもので、ただ正念がありさえすればよいのである。それゆえ汝等、不善を捨てて善を保て。かくして汝等はこの教えによって進むであろう。例えば、村か町か、近くに大きな沙羅の林があり、その樹の皮が汚れて生長しかねているところへ、森を愛する人が現れて、曲がった生気のない芽枝を切り捨て、森の内部を清らかに掃き清め、性質のよい芽と枝を保護すれば、その沙羅の森がやがて育ち繁え茂るのと同じことである。しかし弟子等よ、汝等はこのことを知らねばならぬ。平素の心は異常の時に乱れる。異常の時にも平素の心を持つように学ばねばならぬ。
弟子等よ、遠い昔、このシュラーヴァスティーにベーデーヒカーという寡婦があり、たいそう評判良く『親切だ、謙虚だ、静かである』と云われていた。このベーデーヒカーにカーリという婢があって、これも利口でよく仕事をする者であった。
あるとき、カーリは思う。
(妾の主人はまことに評判が良いが、しかし内心怒りを持っていてそれを外に現さぬのではなかろうか。妾に対しても、これまで一生懸命働いてきたので、内心腹を立てることがあっても、外に現さなかったのではなかろうか。一つこれを試してみよう)
そこでカーリは朝遅くまで寝ていて、ようやく昼中に起きてきた。するとベーデーヒカーは云う。
『カーリよ、今日は大変遅いではないか。何故このように遅く起きるのか』
『それは何もあなたに関係がないと思います』
『どうして関係がないものか。このように遅く起きて』
と、寡婦はすぐに腹を立て、額に怒りの筋を浮かせた。
そこでカーリは、さらに前より遅く起きてみた。
『カーリよ、何故お前はこんなに遅く起きるのか』
『遅くても早くても、あなたに何の関係もありません』
『どうして関係ないといえようか。不心得もの!』
と、ベーデーヒカーはひどく腹を立て、ついには怒りを抑えきれずに棒をとってカーリの頭を打った。
血まみれとなったカーリは家を飛び出し、声高に近隣へ触れ歩く。
『親切な人の仕業を見てください。謙虚で静かな人の仕業を見てください。遅く起きた、といって、棒で妾の頭を傷つけた!』
弟子等よ、それから間もなく、『ベーデーヒカーは恐ろしい荒々しい女である』という噂が立つようになった。
弟子等よ、ちょうどこのように、誰でも面白くない言葉が自分に聞こえぬ間は親切で謙虚で静かなものである。それが自分に聞こえた時に、真実そうであるかが決められる。
弟子等よ、私は衣と食と座具と薬具とを得ているために、口も行いも柔らかな弟子をまことに柔和な弟子とは云わぬ。何故ならば、その弟子は衣と食と座具と薬具とを得なければ、口も行いも柔和でないからである。法を尊び敬うて、口も行いも柔和であれば、私は柔和な弟子と呼ぶ。
弟子等よ、すべての語には時に適った語と適わぬ語と、事実に適った語と適わぬ語と、柔らかな語と粗い語と、ためになる語とならぬ語と、慈しみの語と悪心を持った語の五対がある。汝等はこれらのどの語で話されても、『決して私の心は変わらぬ。悪い語は私の口から漏れぬ。同情と愛憐とをもって慈しみの心に住まい、内心にさえ怒りを抱かぬであろう。その人を慈しみの伴った心をもって浸して住まうであろう。それからその心をひろげて、この世を広く大きく限りない慈しみの心をもって怨みなく憎みなく浸して住まうであろう』と学ばねばならぬ。
弟子等よ、例えば、人あって鋤と袋とを持ってこの大地の土をなくそうと、『土よ無くなれ、土よ無くなれ』と云っては掘って撒き散らす。汝等はいかに思うか。この人はこの大地の土をなくすることが出来るであろうか」
「世尊、それは出来ません。大地の深さに限りがないからです」
「弟子等よ、汝等もそのように、いかなる語をもって語られても、心の変わらぬよう同情と愛憐とをもってその人に向かい、慈しみの心を天地に満たすように学ばねばならぬ。
弟子等よ、また例えば人が絵の具を取って、『虚空に絵を描こう』と企てても、形のない空に物の姿を現すことが出来ぬように、また枯れ草で作った松明を持って、恒河を燃やし乾かそうとつとめても出来ぬように、あるいはまた、よく柔らかになめした猫の皮を摩擦して、ざらざらという音を立てようとしても出来ぬように、汝はいかなる語をもって話しかけられても、決して心が変わらぬよう大地のごとく広く、虚空のごとく着かず、恒河のごとく深く、なめし皮のごとく柔らかに心を持ち、同情と愛憐とをもって向かい、広く大いなる慈しみの心を天地に満たすように学ばねばならぬ。
弟子等よ、たとえ盗賊が女を捕え、両刃の鋸をもって四肢を切り断っているとしても、かかる場合に心の暗くなる者は、私の教えを守らぬものである。かかる場合にあっても汝等はこのように学ばねばならぬ。
『私の心は決して動かぬであろう。悪い語は私の口から漏れぬ。同情と愛憐とをもって慈しみの心を持ち内心にも怒りを抱かぬ。慈しみをもってその人を浸し、それよりもその心をひろげて、この世を広く大きく量りない慈しみをもって怨みなく憎みなく浸すであろう』と」
そこで釈迦牟尼世尊は弟子たちに訊いた。
「弟子等よ、汝等はこの鋸の喩をしばしば繰り返して心に思い見るがよい。汝等はこの私の語る語の筋に、大なり小なり過ちがあると見るであろうか」
「世尊、決して私どもは見ません」
「弟子等よ、それではこの鋸の喩の教訓を、繰り返して心に思い考えるがよい。それは汝等にとって永久の利益と幸福になるであろう」
彼らの師は、このように語り教えた。




