ラーフラ(羅睺羅)
この僧伽で成人したラーフラ[羅睺羅]は、シャーリプトラ(舎利弗)を師和尚、マウドガリヤーヤナ(目連)を阿闍梨として具足戒を受けた。そのラーフラがラージャグリハ近くのアンバラッティカーに滞在していたとき、ちょうど竹林精舎に居た世尊が夕暮れ、禅定より立って、ラーフラのところへやって来た。
ラーフラは座を設け、洗足の水を用意して師を迎えた。成長した彼は父である世尊に似ていなかった。切れ長の眼に優美な顔立ちのシャーキャ族よりも、むしろなめらかな頬と巴旦杏の形をした大きな眼を持つ母方のコーリヤ族の血を濃く受け継いでいるようであった。
そして彼の師は足を洗い終わり、水桶に水を少し残して云う。
「ラーフラよ、この僅かに残った少しの水を見たであろうか」
「世尊、仰せの通りであります」
実の父とはいえ、偉大な沙門であり師でもある。ラーフラは師に対する言葉と態度を以って謙虚に答えた。
「ラーフラよ、知りながら偽りを云い、恥ずることを知らぬ者の出家たる資格は、これと同じく少ないものである」
さらに彼の師は、その僅かな水を捨てて云った。
「ラーフラよ、この残った水が捨てられたのを見たであろうか」
「世尊、仰せの通りであります」
「ラーフラよ、知りながら偽りを云い、恥ずることを知らぬ者の出家たる資格は、これと同じく捨てられたものである」
次に世尊は、その水桶を覆して云った。
「ラーフラよ、この水桶の覆されたのを見たであろうか」
「世尊、仰せの通りであります」
「ラーフラよ、知りながら偽りを云い、恥ずることの知らぬ者の出家たる資格は、これと同じく覆されたものである」
さらにまた世尊は、水桶を起こして云った。
「ラーフラよ、汝はこの水桶の水がなくなっているのを見たであろうか」
「世尊、仰せの通りであります」
「ラーフラよ、知りながら偽りを云い、恥ずることを知らぬ者の出家たる資格は、空しくして何もないのである。ラーフラよ、ちょうど彼の棒のような長い牙を持ち、気の猛々しい勝れた王の象が、戦場に出て前足を使い、後足を使い、耳を使い、牙を使い、尾を使い、すべてのところを用いても、鼻を守っているうちは、象使いも象が疑いなく助かることを信じているが、鼻を用いるようになると、象もいよいよ討ち死にするであろうと思うように、ラーフラよ、知りながら偽りを云い、恥ずることを知らぬ者で悪を為さないものはないと、私は言い切る。ラーフラよ、それ故、たとえ戯れにても偽りを云ってはならぬ」
世尊はねんごろに教えた。それというのも、沙弥であったころ、ラーフラはときどき軽い嘘をついて人をかつぐことがあり、その嘘のため、ときには困った事態になることもあった。父である師は、その性向を案じた。そしてさらにまた、世尊は弟子たる我が子に語りかける。
「ラーフラよ、鏡は何をするものであろうか」
「姿を映し見るものであります」
「ラーフラよ、鏡に姿をうつし見るように、考えに考えて行わねばならぬ。心に思うことも、身に行うことも、口に云うことも、考えに考えを重ねてしなければならぬ。ラーフラよ、身と口と意の三つの行いのいずれを為そうとするときも、その行いが自らを害い、他を害い、自他の害いになりはせぬか、善からぬ行いではないか、苦を生み出すもとではないかと考え、もしそうであるならば、そのような行いは決して為してはならぬ。考えて見て、そのような行いでないならばそれを為すが善い。また、行いを為している最中も上の如く考えて、もしそれが自他の害いになるものであったらば、その行いより身を退き、師や同学の人の前で悔い改めねばならぬ。もし上の如く考えて見ても、自他の害いにならず、善い行いで楽を生み出すものであるならば、その行いは為さねばならぬ。また続いて行い、このような善い行いを為し得るようになったことを喜ばねばならぬ。
ラーフラよ、古の出家たちもこのようにして、その行いを清めた。未来の出家たちも、このようにしてその行いを清めるであろう。また、今の出家たちも、このようにしてその行いを清めている。それゆえラーフラよ、汝もまた、このように深く考えて、身と口と意の三つの業を浄めようと学ばねばならぬ」と。
ラーフラはよく自制し教えを守った。あるとき師和尚であるシャーリプトラに随って托鉢に出た際、軽薄な者がシャーリプトラの鉢に砂を入れ、ラーフラの頭を打ったが、彼は怒りの色も見せず、耐え忍んだという。




