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語らないこと

 釈迦牟尼世尊は、(さと)ったすべてを語ったわけではない。

 コーサンビーのシンサパー林に住していたときのことである。

弟子(おしえご)等よ、この林の葉と、この手の中の葉と(いず)れが多いと思うか」

 彼らの師は、樹の葉を手に取って問いかけた。

「世尊、それは申すまでもありません。林の中の葉は幾億倍も多いのです」

弟子(おしえご)等よ、ちょうどそのように、私が知って説かないことは林の中の葉のように多く、説くところは手の中の葉のように少ない。何故説かないかと云うに、利益とならず、(きよ)らかな修行(つとめ)のためにならず、煩悩(けがれ)をなくし、勝れた智慧をひらき、(さとり)を得、涅槃(けがれのほろび)に入るためにならないからである。説くところの(のり)は苦集減道の四聖(よっつの)(まこと)であって、利益になり、(きよ)らかな修行のためになり、煩悩をなくし、勝れた智慧をひらき、(さとり)を得、涅槃に入らしめるものであるからである。それ(ゆえ)弟子(おしえご)等よ、この四聖諦によって勤め励まねばならぬ」




 この姿勢を基としていた世尊は、世界の果てを問うたマールンキヤプッタ[摩楼伽子(まるかし)]には、このように答えた。

 世尊が祇園精舎に在ったとき、マールンキヤプッタは思った。

世界(このよ)常住(とこしよ)のものかどうか、世界は限りがあるか無いか、霊魂(たましい)身体(からだ)(こと)か一つか、人は死んだ後在るかないか、こういう問題(ことがら)を世尊は斥けて説き明かされない。私はこれに堪えられない。世尊の(ところ)へ行って、この問題を尋ねよう。もし世尊が説き明かして下さるならば、私は世尊の(もと)で修行を続けようし、もし何の説明もなければ、修行をやめよう)

 やがて彼は、師のもとへ行って、いま思ったことを述べた。

「世尊、知り給うように説き明かして下さい。もし説き明かして下さらぬのなら、私は世尊の(もと)を去って家に還るでありましょう」

「マールンキヤプッタよ」

 彼の師は云う。

「私は(おんみ)に、『我が(もと)に来たれ、我が(もと)で修行せよ、世界が常住か否か、限りがあるか無いか、霊魂(たましい)身体(からだ)とは一つか異か、人は死んだ後在るかないかを説き明かそう』と約束をしたことがあるだろうか」

「いいえ、さように仰せられたことはありません」

(おんみ)はまた私に、『私は世尊がこれらの問題を説き明かして下さるならば、世尊の(もと)で修行をいたそう』と約束をしたであろうか」

「世尊、そうではありませぬ」

「マールンキヤプッタよ、私も約束せず、(おんみ)も約束をしていない。ならば、(おんみ)は何の約束を斥けようと云うのであろうか。

 マールンキヤプッタよ、もしそのように、私がその問題を説き明かさない間は修行をしないと云う者があるならば、その人はそのうちに死んでしまうであろう。

 たとえば、人が恐ろしい毒矢に射られたとする。親戚の者や友達が集まって医師に毒矢を抜いて貰おうとするのに、その男が云うには、『私はその矢を射たものが男か女か、いかなる素性のものか、顔かたち姿のいかなるものか、何処(どこ)に住む者かを知らないうちは、この矢を抜かない。また、その弓が大弓か小弓か解らず、(つる)(ふじ)(づる)か糸か(すじ)か解らず、矢が籐か(よし)か、羽根が(わし)(さぎ)(たか)孔雀(くじゃく)か解らず、その矢が牛の筋か水牛の筋か鹿の筋かあるいは草か、何で巻かれているか解らず、矢じりが馬蹄形か槍形か仔牛の歯か鳥の羽か解らないうちはこの矢を抜かない』

 マールンキヤプッタよ、もしこの様に云っているならば、男はその内に死ぬまでのことである。

 だからマールンキヤプッタよ、世界が常住であるという見解があっても、(きよ)らかな修行が出来るものではない。また、世界が常住でないと云う見解があっても、(きよ)らかな修行が出来るものでもない。世界が常住である、常住でないという見解があっても、生と老と死と、(うれい)(かなしみ)(くるしみ)(なやみ)とは迫って来るものである。私はそれらをこの現在において除くために法を説くのである。

 世界に限りがある無し、人は死んで後に()るないといういずれの考えがあっても(きよ)らかな修行が出来るものではないし、また生と老と死と、(うれい)(かなしみ)(くるしみ)(なやみ)は同じく迫って来るのである。私はそれらをこの現在において除くために法を説くのである。

 マールンキヤプッタよ、それ(ゆえ)に私は説くべきことを説き、説いてはならないことを説かないと思うがよい。説いてならないものとは、これらの問題の説き明かしである。何故かというと、これらの問題の説き明かしは真の(いわ)れももたらさず、(きよ)らかな修行のためにならず、煩悩をなくし、勝れた智慧を開き、(さとり)を得、涅槃に入るためにならぬからである。説くべきものとは四聖諦である。何故かというに、これは真の意義(いわれ)をもたらし、(きよ)らかな修行のためであり、煩悩をなくし、勝れた智慧を開き、(さとり)を得、涅槃に入らしめるものであるからである」

 世尊はこのようにマールンキヤプッタに教えた。




 また別のおり、ヴァイシャリーの大林の重閣講堂に(とど)まっていた際に、世尊は多くのバラモンやリッチャヴィ族の人々の来訪を受け、語らったことがある。そのときリッチャヴィ族の人の問いに世尊は次のように答えた。

「……世尊、これらの勝れた境地に至りつく道は何でありますか」

「マハーリーよ、それはただ、この正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八正道である。

 マハーリーよ、私がかつてコーサンビーの瞿師(クシ)()精舎に住んでいたとき、遊行者のマンデツサと、ダールパッチカの弟子ジャーリヤが私の所へきて、霊魂(たましい)身体(からだ)は一つか(ちが)うかと尋ねたことがある。私はそのとき告げた。

『ジャーリヤよ、仏がこの世に生まれて自らさとり、(ひと)を教える。ここに人あってその教えを聞き、信を起こして出家をし、戒めに従って身をまもり、正しく行って楽しみ、小さな罪にも恐れ、五官の戸口を守って正しい智慧をそなえ、生き物を殺さず(なさけ)をもち、盗みをやめて心を清め、邪淫(みだらごと)をはなれ、妄語(いつわり)や粗暴な言葉を吐かず、正しい生活をいとなみ、貪欲(むさぼり)を離れ、瞋恚(いかり)を避け、惰眠を去り、心に悼挙(あおり)と悔いなく、疑いをはらし、心を清らかにする。弟子がかように行って喜びと楽しみとを得て禅定に入るとき、霊魂(たましい)身体(からだ)とが

一つか(ちが)うか、などと云うことが問題となるであろうか』

『大徳よ、それは起こりませぬ』

『ジャーリヤよ、私はかように知り、かように見ているから、霊魂(たましい)身体(からだ)と一つか(ちが)うかの問題を云わないのである。ジャーリヤよ、また、その弟子が次第に禅定を進めていよいよ身も心も清らかに、透き通った感じに満ちて何物にも煩わされない心になったとき、この身のことを考えて、この身が物質から出来ており、父母によって生まれ、食べ物によって保たれ、常なくして壊れるものであると知って、更に進んで四聖諦の(ことわり)を如実に知り、欲のけがれから解脱(のが)れて我は()(のが)れたという知見を生ずる。ジャーリヤよ、彼はかように知り、かように見て、しかもなお霊魂(たましい)(から)()が一つか(ちが)うかを問題にするだろうか』

『大徳よ、それは起こりません』

『ジャーリヤよ、私はかように知りかように見ているから、霊魂(たましい)身体(からだ)は一つか(ちが)うか、その事は全く云わないのである』

 マハーリーよ、このような問答をして、ジャーリヤは私の説に満足して帰ったことがある」

 世尊の話はその場にいたバラモン達が納得出来るものであり、また心に適うものであったので、みな喜んで帰っていった。


 

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