バッガバ仙人
この出来事の後、世尊は北へ赴いて、マッラ族の住むアヌピヤーの町に入った。そして托鉢に出掛けようとしたとき、ふと旧知のバッガバ仙人のことを思い出し、訪ねていった。
バッガバが住む林で、仏陀と仙人は互いに挨拶を交わしてから樹下に坐した。
バッガバ仙人は初め会ったときと同じく木の葉や樹の皮で作った衣を着ていたが、その髪はすっかり白くなっていた。彼は世尊がまだ若く自分に真理への道を尋ねた頃のことを懐かしく思い起こしながら、今や大沙門となった相手を丁重に迎えた。
そして、訊く。
「大徳よ、一昨日、リッチャヴィ族のスナカタが私の処へ参りました。彼の者は『もう世尊の弟子ではない。彼の許には居らぬ』と申しておりましたが、それは事実でありますか」
「バッガバよ、その通りです」
世尊は答えた。
「スナカタは先日、私の処へ来て、『私は今から世尊を離れます。世尊の許には住みません。世尊は私に超人の法、神通を示して下さらぬからであります』と云う。
『スナカタよ、汝は来たれ、私の許に住せよ。私は超人の法、神通を示そうと約束したことはない。しかるに汝は、誰を棄て誰から離れようとするのか。スナカタよ、私の教えは正しく苦なき境界に入らしむるものである。これについて神通を示すと示さぬと何の違いがあるか。スナカタよ、汝はその郷里においてさまざまに仏と法と僧伽との徳を讃えた。しかるに今、汝がこの清浄の行から退けば、人々は汝が行を為すのに堪えかねて逃げ出したと云うであろう』
バッガバよ、私はこう答えて、さらに彼を教誨した。
『スナカタよ、先年、私がブムの町ウッタラカに滞在していたとき、汝を侍者として早朝、托鉢に行ったことがある。そのとき、裸形者のコーラ・カツテヤは犬戒を守り、四這になって、口で地面の食を摂っていた。汝はそれを見て、嗚呼この聖者は何という立派な善いことをしていられるのであろうと、その犬戒の四這を賞讃した。私はその間違った浅ましい教えを難じて、この犬戒行者は七日目に腹の病で死ぬであろうと預言したが、果たしてその通りであった。スナカタよ、それにも拘わらず、汝はそういう形の教えに囚われている。ヴァイシャリーの重閣講堂にいた時にも、アージーヴィカ行者のカンダラマスカについてそのようなことがあった。彼は生涯衣を着ず、女を近づけず、酒と肉を摂らず、白飯も酸粥も食べず、ヴァイシャリーの四隅から一歩も出ないという苦行をして高い誉を得ていた。スナカタよ、汝は彼にもその形に囚われてさとりを得た者のように考えていた。しかも彼もまた私の預言のように、あとはその苦行をやめて何処ともなく去ってしまった。
また、彼のパーテカプッタもその裸形の苦行で衆望を集め、私に対していろいろ批評を加え、神通については私よりも勝れている旨を吹聴していた。汝はそのときにも、彼の言葉を信じて彼の言う所を私に告げた。私はそのとき、パーテカプッタはその言葉を捨てず、その心と見とを離れないで私の前に来ることはないと云った。
あくる日、私は汝を連れて、パーテカプッタの止住している提婆苑に行った。人々は神通のくらべ合いがあるかと思い、集まってきた。しかし、パーテカプッタはひそかにチンド・カーヌ遊行者苑に逃げた。そこで人々は彼を追って遊行者苑に赴き、今こそゴータマと神通を較べるようにと促したが、彼は今行く、今行くと云ってその座から離れなかった。誰も彼もが、パーテカプッタを連れて来ようとしたが皆失敗した。つまり、パーテカプッタはその言葉を捨てず、その心と見を捨てないで私の前に出ることは出来ないのであった。スナカタよ、汝はこういう私の超人の法、神通を見ていながら、なおも超人の法、神通を求めている。それは汝の誤りではないか』
バッガバよ、私はこうしていろいろと彼に教えてみたが、形にのみ執われて内を見ることが出来ない彼は、ついに私の道から退いたのである」
「左様でありましたか……」
バッガバは肯きながら、思った。
(この人は多くの者たちから師と仰がれ、称賛される立場になっても、なんと気さくなことか。偉ぶることもなく、威厳を取り繕うこともなく、弟子との行き違いを私のような教えの異なる行者にも正直に語って聞かせる。他にこのような人がいるであろうか)
そしてまた、彼はこうも思った。
(修行者ゴータマは、まこと『さあ、来たれ(エ-ヒ)』『善く来た(サーガタ)』と語る人であり、親しみのある言葉を語り、喜びをもって接し、しかめ面をしないで顔色はればれとし、自ら先に話しかける人である。この人を憎み嫌う行者たちは、一度でも彼と話したことがあるのだろうか。欲と邪な考えから離れ、彼と相対すれば、その人がどれほど人好きのする暖かな人間であるか、解ろうというに)
バッガバは初めて会ったとき苦行の功徳について問われ、答えられなかったことをずっと考えていた。他の修行者ならば、辱められたと恨むところを彼は何故か思わず、かつてシッダールタという名の若者であったこの聖者に親しみを抱いていた。そして今、他の苦行者のことを謗られても、怒りは感じなかった。それはすべて事実であったからだ。
(その声は、はっきりとして透き通って聞こえる。些細なことを語るときにも、非常な重大事を語るときにも、その態度は同様の調子であり、少しも乱れを示していない。ひろびろと落ち着いた態度をもって、異端をさえも包容してしまう。……この人を見て、誰が敵うと思うのだろう)
彼は云った。
「大徳よ、私はあなたとその御弟子たちをそしる者の方が間違っていると信じます。……大徳よ、私に浄らかな覚に入る法をお説き下さることが出来ましょうか」
長い苦行生活のはてに、バッガバの精神からは怒りも欲望も洗い流され、そこに存在するのは、ただひたすら道を求める者であった。
その心境は水鏡に映るように、世尊にも分った。
「バッガバよ、汝のように違った教えに属し、違った信念と見解を有していて、浄らかな覚に入ろうとするのは困難である。汝は私の上に抱いている信ずる心を善く護るとよい」
「それで良いのでありますか」
バッガバは喜び、世尊への信をよく護ることを誓った。
彼らが語りあっている間、人々は林に近寄らなかった。
「ふたりの聖者さまが、お話しになっている」
と、遠くから見守り、なかには拝む者もいた。
そして仙人と仏陀はしばしの間、静寂を楽しんだのであった。




