災厄の先達
ベンニーアは泣いていた。
自分が情けなくて仕方がなかった。
やりたい事とやるべき事の区別もつかず、覚悟も足りないままに負けてしまった事が悲しかった。
自分の努力が通じなかった事が悔しかった。
父親にちゃんと向き合ってもらえない事が辛かった。
自分が許せなかった。
自分が自分でなければと思った。
自分が女じゃなければ良かった。
男として産まれてきたのであれば、きっとこんな気持ちになる事はなかった。
ラムセスのように優れた才能を持っていたのなら、父親を不安にさせる事は無かった。
もっと愛されたかった。
自分をもっと愛してほしかった。
自分の感情を抑える事ができない彼女は、そんな気持ちばかりが溢れてしまい、思考が定まらない。
だからだろう。
いつの間にか隣にいた彼女に声をかけられるまで、ベンニーアはその存在に気がつく事ができなかった。
「悔しい?」
「…………えっ?」
ベンニーアはその時初めて、自分が知らない場所にいる事に気がついた。
先程まで競技場の通路を進んでいたはずだというのに、今いる場所は全く別の空間になっていた。
薄暗い一本道、壁に設置された蝋燭、苔が生え亀裂の走っている壁。
長い歴史を誇り、今も魔術師によって建設当時の状態を保たれている競技場では、ありえない景色。
ベンニーアはそれに疑問を抱くよりも、まず恐怖を覚えた。
競技場の通路も一本道だ。
ベンニーアはそこをまっすぐ駆け抜けてきた。
少しでも早く、その場を離れたかったから。
そして、自分に失望したであろう父親の顔を見たくなかったから。
競技場を出れば、其処は隣接された公園に繋がっているはずなのだ。
だというのに、この場所は光すら差し込まない、出口の見えない一本道。
ベンニーアは恐怖した。
そんな事ができる存在を、彼女は二つだけ知っていたからだ。
一つは、魔法。
ベンニーアは実際それを見た事はないが、魔術とは別のベクトルで不可思議な現象を引き起こす超常の力だ。
そしてもう一つは、魔物。
強力な力を持つ魔物は、魔術や魔法に引けを取らない程の不条理を引き起こすという。
どちらにせよ、ベンニーアを狙った何者かの仕業である事に変わりはないのだ。
そして彼女の優れた洞察力は、この場の淀んだ雰囲気と、これから起きる厄難への危険信号を煩いほどに鳴らし続けている。
喉が引きつり、声にならない悲鳴が出た。
「ねぇ、悔しい?」
「ひっ」
この場にいるベンニーア以外の唯一の存在が、彼女の顔のすぐ近くで口を開いた。
ベンニーアは思わずといった挙動で、その場に尻餅をついた。
相手は白いフリルのついた、ゴシックロリータと呼ばれる服装に身を包んだ小柄な少女だ。
両手を後ろに回して前屈みになり、頭の位置が下がったベンニーアの顔を覗き込んでくる。
彼女はその瞳をベンニーアの瞳にぴったりと合わせると、首を傾げて問いかけてくる。
「それとも、悲しい?」
しかし、ベンニーアはそれに応える事ができなかった。
少女の瞳の中に映るベンニーアの顔は、恐怖で歪んでいた。
「口にしなきゃ分からないよ? どうなの、悔しかった? 悲しかった? それとも…………憎い?」
少女の右目の下には、菱形のペイントらしきものが一つ。
ベンニーアはそれを、去年の「貴族祭」の時に目にした宮廷道化師のようだと思った。
なにもベンニーアは、この少女が恐ろしいと思ったのではない。
見た目は可愛らしく、貴族の子女であると言われれば、それを受け入れられる程度には綺麗な顔立ちをしていた。
しかし、その瞳が恐ろしかった。
大きな瞳に、小さな白目。
普通の人間なら白目は外側にあるはずだが、少女のそれは内側に存在していた。
そして、その白目の奥底には、なにか得体の知れない影が映っているのだ。
それは、喜び。
それも、薄暗くて陰湿な…………この小さい女の子には不釣り合いな悍ましい愉悦の感情。
少女の瞳は、何よりも雄弁に語っている。
ベンニーアを、嘲笑っている。
何がおかしいというのか。
少女の嘲笑を感じ取ったベンニーアは、その時だけ怒りが恐怖を上回った。
「なんですか! わたしをバカにしているのですか!? 負けたわたしが、そんなにおかしいですか!」
「ううん、そんな事ないよ?」
「ーーーーえっ?」
予想を裏切る回答に、ベンニーアは思わず鼻白んだ。
少女は邪気のない笑顔を浮かべると、ベンニーアの手を取って立たせる。
「あ、ありがとうございます…………」
「びっくりさせちゃってごめんね? 私、あなたとお話がしたかったの」
「お、おはなし?」
「そう、おはなし」
少女は両手の五本の指をそれぞれ合わせて口の前に置くと、上目遣いになってベンニーアを見つめた。
「私ね、あなたを見て思ったの。きっと、私達は仲良くなれるって…………同じ気持ちを共有できるって、ね?」
「な、仲良く? 友達になりたいのですか?」
「そう…………だから、あなたの事、もっと知りたいって思ったの…………ねぇ、教えて? 今どんな気持ちなの? 彼に負けて…………どう思った? 悔しいの? 悲しいの? 憎い? 妬ましい? それとも…………羨ましい?」
「わ、わたしは…………そんな、そんな事は…………ただ、不甲斐なくて…………」
それを聞いた少女は花の咲くような笑顔を浮かべて、ベンニーアに頷いた。
「うん! うん! そうだよね! あなたならそう言うと思ってたよ! …………でも、それだけじゃないんでしょ? 此処には誰もいないよ? もっと…………もっとあなたの事、教えて?」
少女の瞳が、怪しく光る。
白目と黒目が伸縮を繰り返し、出来の悪い記録装置のように焦点が遠近を行き来する。
ベンニーアはそれを見て、心の底から何かが溢れてくるのを感じた。
「『囁き妖精』の声は素敵だよ? どんな人でも素直な気持ちになれちゃうの。昔は沢山いたんだけど、人々に優先的に駆逐されちゃったから…………貴重な体験になるよ? きっとあなたも気にいると思うな」
「わたし、わたしは…………」
「そうそう、時間は沢山あるんだから! いつまでも私が聞いてあげるね? あなたの事が好きだから。もっとおはなし、聞かせて?」
虚ろな瞳で譫言を繰り返すベンニーアを、少女が抱きしめた。
ほぼ同じ身長の二人が抱き合う姿は、きっと微笑ましく映る事だろう。
例えその内の一人が、どうしようもなく危険な存在であったとしても。
鬱憤を抱えてきたベンニーアにとっては、今は彼女だけが唯一の理解者なのだから。
「大丈夫だよ? あなたのかわりに私がいるから。その代わり、あなたも私にしてあげる!」
バルトロ・フランベリックは走った。
それは、誰のためだろうか。
彼の敬愛する王は言った。
『バルトロよ…………お前は魔術師としては一流だが、親としては落第じゃな』
バルトロはこの顛末を、自分の態度が招いた騒動である事をよく理解していた。
己の不甲斐なさを詫びたバルトロへ、王は更に言葉を重ねた。
『バルトロよ、お主が謝罪するべきは儂ではないだろう。早く迎えに行ってやりなさい…………親をあそこまで想っている子が、不憫で仕方がない。お主は自分なりに想っていたのだろうが、愛とは言葉にしなければ伝わらないもの。それをよく理解した上で、今一度やり直しなさい』
バルトロは王に一度だけ頭を下げ、その場から全力で走り去った。
ベンニーアの声は、彼にも届いていた。
情けなかった。
娘をそこまで追い詰め、そしてあんな事を言わせてしまった。それを、心から恥じていた。
娘に会いたかった。
会って謝りたかった。
決闘の話を聞いた時、バルトロが得た感情は困惑だった。
それまでバルトロは、娘の事を理解していなかったのだ。
あの形で気持ちを受け取った今でさえ、どんな声を掛ければいいのか分かっていない。
だが、使命感にも似た何かがバルトロの足を動かしていた。
もし、彼がこのまま自分の娘に会う事が出来たのならば。
きっとお互いの気持ちを語り合い、よりよい結果を導いた事だろう。
言葉の足りなかった親子が、その本心を打ち明け、掛け違えた歯車を元に戻す。
なんと素晴らしく、美しい事だろうか。
だが、今はその時ではなかった。
一度すれ違った心は、簡単に元の位置に収まることなどないのだ。
「…………ベニー!!」
バルトロは、暫く呼んでいなかった愛称で娘の名を叫んだ。
彼の視線の先には、通路の真ん中で俯き、マントの裾を握りしめたベンニーアの姿があった。
駆け寄って、抱きしめる。
そして、謝罪を口にする。
「すまない…………すまなかった。私が間違っていた…………お前を、追い詰めてしまった…………許してくれなんて言わない、もう一度だけ、私にチャンスをくれ。頼む…………」
ベンニーアはなにも言わなかったが、バルトロの事をぎゅっと抱き返す事で、それに応えた。
暫くその場で抱き合う。
バルトロは気がつく事はなかった。
娘の姿をしたその存在が、自分の見えない所で口角を上げ、何かを嘲笑っていた事に。
こうして、役者は揃った。
舞台は王国首都、アリストクラット。
刻は太陽暦八年、神話の始まる特異点。
人魔入り混じる戦いの歴史、その幕が上がる。




