42・シェルショック
そしてイザベラは時々、デュッセルドルフから汽車で1時間ほどの所にある、姉の元を訪ねた。
ザルム=ザルム侯爵家が、17世紀以来所有しているアンホルト城は、周りを広い湖で囲まれ、更にその周囲に緑の森が林立している、美しい城だった。
父のエマヌエル侯が戦死した時は、まだ幼少だった上の子供たちも、もう思春期になり、特に長女のイザベラはしっかり者で、充分母を支えているようだった。
「お母様も貴女もそうだけど、イザベラという名前のせいかしらね?頼り甲斐があるのは」と、姉が冗談混じりに話すと、「時代が変ったのよ。ドイツもオーストリアも共和国になって、身分の違いも狭まったし、女性の地位も上がったもの。私もお母様の世代だったら、あんなことが出来たかどうか?」とイザベラは答えた。
「新婚旅行から帰るなり離婚した時は、私も驚いたけど、その後は偉かったわ。
女1人で生きて行く道を見付けて、戦争中は砲弾の飛び交う中で、患者を看護したんだから」とクリスティーネは、妹を称賛するように言った。
「でも助けられなかった人も多かったわ。或いは命は助かっても、手足を失ったり、未だ心の傷に苦しんでいる人もいる」そうイザベラが呟くと、クリスティーネも亡き夫のことを思い出して俯いた。
第一次世界大戦後は、生還した兵士たちの間に、当時『シェルショック』と呼ばれた、今日でいうPTSDの症状が、頻繁に見られた。
体に傷は残らなかったものの、余りにも長期にわたって、死の恐怖にさらされ、戦友の惨死を目の当たりにし、また劣悪な環境に置かれ続けたせいで、戦闘が終って世の中が落ち着いても、僅かな音でパニックを起こしたり、手足の震えが止まらなかったり不眠、食欲不振など、幾つもの神経症状が現れたのだった。
最初は単なる個人的な問題と軽視され、日本兵にはこの症状が現れた者はいなかったので、日本人は西洋人より精神力が強いなどと、胸を張っていたものだが、何万何十万人もの帰還兵が、この病気に悩まされたため、流石に政府も専門病院を設け、患者たちには睡眠薬等による薬物治療や、社会から隔離した施設で休養させたり、或いはフロイトの精神分析のような、対話療法も施された。
パウルは専門医ではなかったが、彼の所にも眠れないとか、震えが止まらないなどの、症状を訴えて来る患者がいたので、そんな時は適切な薬を与えて、対処療法を行うしか無かったのだが、パウルもイザベラも極力患者の話を聞き、その心をほぐすことに尽力した。




