38・スペインの風は世界に吹く
1917年、戦争が始まって足掛け4年になり、膨大な数の死傷者も出ると、流石に両陣営共々、厭戦気分が漂っていた。
特に同盟国側のドイツ、オーストリア、トルコ、協商国側のロシアは、敵国との戦いに加え、国内の問題に悩まされていた。
元々トルコは前近代的な専制君主制に対し、20世紀の初頭から『青年トルコ党』が、度々反乱を起こしていたし、ロシアではこの年に起きた、”2月革命“でロマノフ朝が倒され、臨時政府が樹立された。
同年の10月革命では、新たに革命政府が興り、戦争はまだ続けられていたが、もうその余力は無しと見てか、翌年ロシアの離脱により、東部戦線は終結した。
イザベラの役目は一区切りついたが、まだ西部戦線での戦いは続いていた。
この年の4月には、遂にアメリカがドイツに宣戦布告した。
その約2年前Uボートが撃沈した、イギリス船ルシタニア号に乗っていた、百数十名の一般アメリカ人が犠牲になって以来、アメリカのドイツへの反感は強まっていたのである。
一方若きオーストリア皇帝カール1世は、戦いの早期終結を計り、ベルギー軍に所属している皇后の兄弟で、ブルボン・パルマ家のシクストゥスと、グザヴィエの2公子を介して、英仏と単独で交渉しようとしたが、この計画は事成らぬ内に発覚し、国民は皇帝に“裏切り”に対する不信を募らせた。
このことは後のオーストリア=ハンガリー帝国瓦解の一因となる。
その年にはクリスティーネの末子で、まだ5歳のフランツが亡くなった。
夫の戦死に続く息子の夭死に、打ちのめされているだろう姉を思うと、イザベラは心を痛め、10歳余りになっている上の子供たちに、どうかお母様を支えて上げて頂戴と、手紙を書いて頼んだ。
だがイザベラの仕事は終らなかった。
戦争の終りが見え出したのと入れ違いに、いわゆる“スペイン風邪”がヨーロッパのみならず、世界に蔓延し始めていたのである。
この感染症がいつ、どこから始まったかははっきりしない。
ヨーロッパかアメリカ、中国説など様々で、一応1918年から1920年まで、3波に渡って流行したと言われるが、それ以前から兆しは見えていて、多くの兵士が戦闘ではなく、この感染症のせいで死んで行ったいう。
しかし参戦各国は、兵士の戦意喪失を怖れて、このことは隠していた。
ただ中立国のスペインは、それに構わず報道したため、このパンデミックは、『スペイン風邪』などという、不名誉な名を今日まで残すことになったが、いずれにせよ全世界で5000万人から1億人が亡くなったと言われる。
こうなればもう戦争どころではない。
イザベラたちは今度は、負傷兵の手当こそ減ったものの、戦闘で弱り切り、病気への抵抗力を無くした人たちの看病に、忙しくなっていた。




