37・巨星墜つ
イザベラは皇帝に、パウルとの結婚の許可を求めたが、案の定と言うか猛反対された。
かつての孫嫁で、しかも結婚から1年足らずで離婚して、世間の笑い者になった彼女に、個人的に意趣遺恨は無かったとしても、ハプスブルクの家内法に則れば、家長として許せるものではなかった。
亡き前皇太子フランツ・フェルディナントや、或いは皇帝の内孫エリザベート大公女(皇帝の息子で故ルドルフ元皇太子の娘)など、貴賤結婚をした者は、過去にも何人かいたが、相手は下級とは言え一応貴族だった。
有能な医師であっても平民で、外国人でプロテスタントのパウルとの結婚が、すんなり許されるとは、イザベラも流石に期待していなかったが、しかし彼女はかつてのフランツ・フェルディナントのように、皇帝と対決してでも、我意を通すことは出来なかった。
ゲオルクとのこともあるが戦争中でもあり、もはや80代の半ばも過ぎた老齢の皇帝に、これ以上の憂いを増やすことは忍びない。
そしてその年の夏には、更に辛いことが起こった。長姉クリスティーネの夫で、ザルム=ザルム侯世子の、エマヌエル・アルフレートが、東部戦線のピンスク(現ベラルーシ共和国)で負った傷が元で、戦死したのである。クリスティーネは37歳で、5人の子を持つ未亡人となった。
イザベラは姉が心配だったが、自身の病気も含め仕事を放って、姉の元へ駆け付けることも出来ず、お悔やみの手紙を送るのが精一杯だった。
そして11月21日、遂にフランツ・ヨーゼフ皇帝が、86歳で逝去した。
その前夜まで高熱にも関らず、政務を取り続け、少し休むと言ってベッドに横になったきり、それこそ眠るような大往生を遂げた。
在位68年、この国そのものだったような彼の死に、国民はみな不安に囚われたが、同時にその後を継いだ、まだ20代のカール1世と、その皇后ツィタの若さに、新たな時代への微かな期待も抱いていた。
それでも戦争は続いた。フランス北東部のヴェルダンで、2月から始まっていた独仏軍の消耗戦は、両軍合わせて、約70万人の戦死者を出したが、死者数は両軍ともほぼ同じで、ドイツ軍は今度は東部戦線に、攻撃を始めたイギリス軍に対抗するため、そちらへ兵を回さざるを得なくなり、12月には結局勝敗のはっきりしないまま、ヴェルダンの戦いは終ってしまったのである。
イザベラもまた、結婚話は一先ず置いておき、健康を取り戻すと、看護学校の生徒から、新たな医療チームを結成して、東部戦線へ戻った。
パウルとの結婚を諦める気は無かったが、そうして彼と同じ場所で、同じ仕事に携わることこそ、彼の言った“夫婦で同じ道を歩むという、一つの結婚の形”ではないかと、考え始めたのである。
だとすればもう誰の許しも要らなかった。




