31・ヤロスロワ野戦病院にて
イザベラはちょうどその頃、看護学校での基礎講習を終えて、ウィーン市内の病院で、現場実習に入っていたが、セルビアへの宣戦布告からまもなく、8月になるとまずロシアが、セルビアへの支援を表明し、更にロシアの協商国であるフランスがロシアに共鳴すると、オーストリア=ハンガリー帝国の同盟国ドイツが、フランスへ侵攻するため、中立国のベルギーをした通過ことを、国際条約違反として、イギリスもドイツに宣戦布告した直後、オーストリアもロシアに宣戦布告して数日後には、イギリスとフランスがオーストリアに宣戦布告。
更には日本も日英同盟の繋がりから協商国側に付き、ドイツがアジアに持つ租借地や、植民地を攻撃すると言う、1ヶ月足らずで何か国をも巻き込む、一大戦争へと発展した。
そのため負傷兵を治療する野戦病院のスタッフも、正規の医師や看護婦だけでなく、看護学生や修道女、民間から志願したボランティアも加わることになった。
イザベラがまず派遣されたのは、英仏との戦闘(西部戦線)より比較的激しくない、ロシアとの戦闘(東部戦線)の後方にある、ポーランドのヤロスロワの野戦病院だった。
病院と言っても学校や寺院等の、広い場所で代替するものだから、ウィーンの病院とは勝手が違い、
作業はまず建物内の清掃と消毒、ベッドの設置と処置室の整備から始まった。
そこには前線から運ばれて来た重傷兵や、長距離の移動には耐えられない衰弱した患者が運ばれ、イザベラは懸命に彼らの看護に当たったが、前にゲオルクに言ったように、その深い傷やそこから流れる血を見ることには耐えられても、耐えられなかったのは患者が放つ、苦痛の声を聞くことだった。
当時はクロロフォルムや、エーテルでの麻酔を以て、外科手術が行われていたが、麻酔を掛ける時間が無いほど緊急を要したり、麻酔を掛けるスタッフいないか、薬剤が不足している時は、やむを得ず麻酔無しで行うこともあった。
そんな場合は激痛で暴れる患者を、数人で押さえつけ、体の傷の縫合や手足の切断手術を施す。
その後はその傷を処置し、モルヒネで痛みを和らげ、術後の経過を看るのが、イザベラたちの役目だったが、日に日にそんな患者が増えて行っても、彼らの苦悶の表情や、呻き声を見聞きすることには、中々慣れなかった。
その年の11月には、トルコも過去何度かの戦争で、ロシアに奪われて来た失地回復を目指し、ドイツ・オーストリア側に加わったと言うのに、なぜか両陣営ともクリスマスまでには、戦争は終わるだろうと言う、根拠なき楽観論に囚われていた。
やがてイザベラは更に前線の、クラクフに転属するが、そこで一つの出会いが待っていた。




