30・サラィエヴォの惨劇
第1次世界大戦の切っ掛けになったのが、サライェヴォ事件だとは知っていても、そこ至るまでは当時の非情に複雑な国際情勢が絡んでおり、一口には説明できないが、事件の起こった1914年6月28日は、暗殺された夫妻の結婚15周年記念日だった。
かつて身分違いの愛を貫いた皇太子が、結婚してもハプスブルグ家の一員と認められなかった妻と、その死後に引き離されるのを怖れて(ハプスブルグ家の人間は死後、その代々の廟所カプチーナ教会へ葬られる)、予め家族用の墓所を、準備していたと言う話は胸に詰まる。
フランツ・フェルデフィナント皇太子は、その人好きのしない風貌と、不愛想な言動で、宮廷内でも民衆の間でも、余り愛された人物ではなかったが、それでもその非業の死と、愛する妻のために用意した墓所へ、その妻の棺と共に、遠い道を運ばれて行く様に人々は同情し、セルビアを討て!という声は、国内に高まって行った。
しかしセルビアに戦争を仕掛ければ、 同じ汎スラヴ系のロシアが、介入してくるかもしれないという不安から、政府内でも意見が別れ、すぐには結論が出なかったが、同盟国ドイツの後押しもあり、サラィエヴォ事件から約1ヶ月経った7月下旬、最終的に強硬派の主張が通り、オーストリアはセルビアと国交断絶・宣戦布告に踏み切った。
我々日本人が第2次世界大戦については、その勃発から終戦まで、戦闘もその頃の国民生活も、戦後生まれの人間でさえ、遍く知っているのに比べ、第1次世界大戦には、馴染みが薄いと言っても良いだろう。
日英同盟の縁から連合軍側には組したが、本土空襲を受けたり、一般国民が徴兵されるようなことは無く、戦死者約400人、戦傷者約900人と、少ないと言っては語弊があるが、当事者のドイツやロシア、フランスやイギリスなど、ヨーロッパ列強に比べて格段に少なく、民間人の犠牲者も出なかったせいか、余り関心は持たれていない。
日本に課せられた役目は、当時ドイツが租借していた山東半島や、太平洋の植民地を抑えることと、地中海を航行する連合軍側の船を、ドイツの潜水艦による攻撃から守ること、攻撃された場合その船の乗員乗客を、救助することだった。
そうしてとにかく戦勝国となって列強の仲間入りをし、ドイツが握っていた租借地や植民地の権利を得て、拡大して行く日本の領土的野心への、欧米列強の警戒が、次なる大戦の萌芽の一つとなる。




